今年の1月中旬、久しぶりの遠出の計画を実行しました。
出かける時には1度、都内に初雪が降った翌日で凍てつく寒さです。真冬の散歩用に購入したスマホ用の手袋をさっそく使ってみましたが、あんまり反応はよくないようです。
日の出前の6時40分に品川を出発しました。品川から新綱島、新横浜から鶴ヶ峰までの歩いた場所を見逃さないようにと集中しましたが、まだ少し薄暗い中、あっという間に風景は後ろへと過ぎて行きました。残念。
6時59分、小田原の手前あたりからは霜柱が立っているのが見えました。
すっかり見慣れた沿線の風景ですが、さらにその沿線を歩いた場所が増えたので眺め続けていてもあきることがありません。あっという間に静岡から愛知県へと入り名古屋を過ぎると、建設中だった木曽川の橋がつながっていました。川風の強い中で堅強な橋を建設するのですからすごいですね。
関ヶ原はいつもなら積雪で徐行運転になることが多い時期なのに、うっすらと積もっているだけでした。滋賀県に入ると、麦が芝のように出始めていました。
散歩の始まりだというのに、次々と歩いてみたい場所ができてしまいました。
四季折々、また風景もそして生活も違いますしね。
*水賀池*
9時ちょうどに新大阪駅に到着、ここから乗り慣れない大阪の路線をどきどきしながらの乗り継ぎです。中百舌鳥駅で泉北高速鉄道に乗り変えて、すぐひと駅の深井駅に10時16分に到着しました。
このわずか一駅区間にも3つのため池のそばや上を通過します。どんな水路の歴史がある場所なのでしょう。
深井駅の直前に水賀池のそばを通過しましたが、広大な池が真っ青な冬空に美しく遊歩道もあるようです。寄り道したくなりました。
周囲より少し高くなったため池でしょうか、桜などが植えられていて休日の朝の散歩をする方々とすれ違いました。のどかな場所ですが、公園の歴史は見つかりませんでした。
冬の水鳥に混じって、カモメもいました。堺市はやはり海が近いのですね。
*国史跡土塔へ*
水賀池のそばはその名も水池町という静かな住宅地で、ところどころに蔵のある灰色の屋根のお屋敷のような農家もありました。行基さんの頃からこの地を耕してこられたのでしょうか。
駅から直線距離で数百メートルほどのところに最初の目的地があるのですが、そこまでも少し上ったり下ったり起伏がある道を歩くと、右手に公園のような場所があって写真で見た場所がありました。
昨年9月に狭山池博物館を訪ねた時に印象に残ったのがこの土塔で、住所も土塔町です。
あちこちのため池や水路などを造り、現代でも「行基さん」と親しみを込めて呼ばれている方ですが、こんな形の記録もあるのかと印象に残りました。
真っ青な空と周囲のところどころ緑の混ざる芝生に茶色いそのピラミッドのようなものが映えていて、説明板がありました。
瓦葺と文字瓦
土塔には、前面に瓦が葺(ふ)かれていました。その数は約60,000枚にもなります。また各層の垂直面にも瓦を立てて風雨による盛土の崩壊を防いでいたようですが、葺かれていた瓦の製作年代から、室町時代までは瓦葺(かわらぶき)の補修が行われていたことがわかります。
土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土しています。大半は人名で、行基と共に土塔を建立した「知識(ちしき)」と呼ばれる人々の名を記したと考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前も見られます。
*行基さんと共に働いた「知識」という方々の記録*
行基さんの偉業の数々とは少々雰囲気の違うこの場所について、Wikipediaではこんな説明があります。
「行基年譜」によると土師郷では、天平13年(741年)頃までに土室池、長土池、野中布施屋が造成されており、大野寺建立にさいしても、まず住民の利便に直結する農業生産を支える灌漑池を作ることから始め、その造成のために集まった人々を仏教用語でいう「知識」として編成し、寺と布施屋の建立が行われたと考えられている。土塔の北方約460メートルには、行基が天平13年(741年)以前に造成した「薦江池(こもえいけ)」に相当すると考えられる「菰池」がある。また土塔の築造には大量の土砂が発生するため、土塔の造営と池の造営は、表裏一体の関係にあったともいえる。
土塔から西、および北西方向には奈良時代の遺跡が点在するが、その中に士師観音廃寺(堺市士師)があり、そこから八葉複弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草紋軒平瓦が出土しており、土塔からも同范の瓦が出土していることから、土塔の造営に、かつて百舌鳥古墳群の造営に従事した集団の後裔にあたる士師氏が関わっていたと考えられる。また、出土した瓦にあった名に「大村氏」、「荒田氏」、「神氏」などの氏族名があり、これらの氏族は、土塔の南に広がる泉北丘陵の陶邑窯跡群と呼ばれる須江器窯を中心とした遺跡群が所在する地域に拠点があったとされ、窯生産と関わりがあったと考えられる。これらのことから土木技術を持つ士師氏と、窯業技術を持つ陶邑窯跡群周辺の氏族が得意分野を生かした建造物として、土を持った上に瓦を葺くという、日本でも稀な仏塔が造営されることになったと考えられる。
(「土塔」「発掘調査からの考察」)
基本的に瓦1枚に1名の名が記されているが、文字瓦の筆跡については大半が異なっていることから、基本的に各自で名を記したと考えられる。人々が名を刻む行為は、財力や労力を寄進した人々が仏と縁を結ぶ意味で行われたと考えられる。この行為を行った人々は、行基に従った人々で仏教用語でいう「知識」とされる人々であり、行基の土塔建立を「知識」が支えたことを裏付けることができるといえ、出土刻書瓦の中には「知識」と記された出土物も存在する。
(同上)
「財力や労力を寄進した人々」、ふと新約聖書の1タラントンのたとえを思い出しました。
そして「知識」にはそういう仏教の意味があることを、恥ずかしながら初めて知りました。一つの言葉の変遷にも気が遠くなる歴史がありますね。
瓦に書き込まれた文字に、行基さんとともに生きた時代を経験してみたかったと思いながら、しばらくベンチに腰掛けて土塔を眺めました。
*行基さんの記事のまとめ*
いつの間にか私も「行基さん」と親しみを込めて呼ぶようになりました。行基さんの軌跡に出会ったり思い出した記録がたまってきたのでこちらにまとめることにします。
<2019年>
<2020年>
<2022年>
<2023年>
ただひたすら用水路とため池と水田を見に〜香川・岡山・兵庫・大阪・奈良へ〜
<2024年>
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
聖書に言及した記事のまとめはこちら。