大阪駅からシティバスに乗って毛馬橋バス停で降りると、目の前に淀川神社があります。きっと水の神様だろうと見当をつけて訪ねたのですが、境内にはそれらしい説明はありませんでした。淀川本流の河畔の小高い場所だったのではないかと思われる、周囲の家との高低差があるくらいです。
Wikipediaの歴史を読むと、「淀川河口の海賊を取り締まるための役人」と関係しているようで、これもまた水の神様の一つでしょうか。
淀川神社の前の蕪村公園の横に遊歩道があります。毛馬閘門の横を歩き、堤防から放水路との分岐点にある淀川大堰を眺めました。
上空を数分おきに旅客機が飛行していました。
淀川本流は、大川という名前になって大阪城の横で寝屋川と合流し、中之島を挟むように堂島川になり、河口付近で木津川と別れたあとに海に流れているようです。
大阪湾の淀川河口付近は、まるで東京湾を反転させたような地図なのですが、川の分岐・合流と埋立地の関係が東京湾以上に複雑です。何度見ても覚えられないのは、ただ私に土地勘がないだけではなさそうです。
河口近くで、淀川本流自体がこんなに湾曲してしばらく海に並行して流れていたのはどういうことなのだろう。
その辺りが気になって、中之島あたりまで遊歩道を歩く計画でした。
ところが途中から本降りの雨になり、中之島どころか大阪城までたどり着くのも断念し、桜ノ宮駅から一旦大阪駅へと戻ったのでした。
*淀川改良工事*
国土交通省淀川河川事務所のサイトに「淀川改良工事とは」という説明があります。
明治18年(1885年)の洪水による大きな被害で、淀川の改修への要望は高まりましたが、工事着手までには幾重もの困難がありました。陳情活動など淀川改修に生涯を掲げた大橋房太郎が中心となって実現への努力を重ね、ようやく明治27年(1894年)に日本人技師で第4区(大阪)土木監督署長の沖野忠雄による「淀川高水防御工事計画」が内務大臣に提出されます。さらに、明治29年(1896年)に河川法が制定され、わが国最初の本格的な治水工事が開始されることになりました。これが100年前に完成した淀川改良工事です。
この工事は、上流から下流まで流域全体を見据えたスケールの大きい斬新な考えに基づいたもので、その範囲は琵琶湖から大阪湾にまで及びました。新淀川の開削のほか、毛馬閘門との毛馬洗堰の建設、瀬田川洗堰の建設、宇治川の付け替えなど、明治43年(1910年)までの約14年にもわたる歳月をかけて完成しました。
淀川改良工事は、当時の淀川の治水安全度を飛躍的に向上させ、地域の発展に寄与するとともに、その後の日本全国の河川法における治水対策にも大きな影響を与えました。
川のそばを歩き、その地域の歴史を少しずつ知るようになって、100年に一度というのは、その当時の人たちの「百年の計」を意味しているのだと思うようになりました。
実際に訪ねてみて、上流の瀬田川改修の歴史や宇治川や巨椋池周辺の歴史と少しずつつながりました。
この淀川放水路のそばを歩いたその日の夜に、球磨川の氾濫のニュースを知ったのでした。
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