行間を読む 93 「二度と起こしてはならない」

国土交通省淀川河川事務所の「淀川改良工事とは」に、淀川改修の歴史が書かれています。

淀川改修工事とは、以下の4つの事業のことのようです。

宇治川の付け替え

3つの川を整理した宇治川の付け替えと巨椋池分離

 

毛馬洗堰・閘門の建設

洪水を防ぎ舟運を守る毛馬の洗堰と閘門の設置 

 

③新淀川の開削 

大型機械を駆使した近代工事 新淀川の開削

 

瀬田川の浚渫、洗堰の建設

淀川と琵琶湖の洪水を防ぐ瀬田川洗堰(南郷洗堰)の設置

 

平面状の地図では東京湾と大阪湾は反転させたように似た形で、そのどちらも沼なのか川なのか海なのかわからない地形を長い年月をかけて川を付け替え、水害や水不足に対応し、農地や人が住む土地へと変えてきた歴史は似ています。

ただ、大阪湾周辺の方が山が近くに迫っていて急峻な流れになりやすそうですし、何よりも上流に琵琶湖という大きな湖があります。

 

その上流から下流までを制するために、何が必要なのか。

一世紀前にそれを見越して、この改修計画を立てていたことに、畏敬の念しかありません。

 

まずは安全に人が生活できる場を作り、少し生活に余裕ができたら緑を植え憩いの場を作り、さらに余裕ができてこんどは環境全体を考える

理想と現実の葛藤には忍耐が必要ですね。

 

*沖野忠雄氏と大橋房太郎氏*

 

淀川改修工事に貢献した二人について、説明が書かれています。

当時、たびたび氾濫を起こし周辺住民を悩ませた淀川。沖野は新淀川の開削など本格的な洪水対策を実施しました。工事は、外国製の掘削機を導入するなど当時の最新の理論と技術を用いた大規模なもので、沖野は、先に行われたオランダ技師デ・レーケらの工法を我が国の河川様式に修正応用するなど柔軟に工事を進めました。また、彼は人間的な魅力を併せ持ち、人一倍の部下思いであったと言われています。地位や名誉にも無頓着で、生涯、純粋な一技師として、淀川、そして我が国の発展に貢献しました。

 

現在の大阪市鶴見区に生まれた大橋房太郎は、東京で法律家を目指していましたが、明治18年(1885年)の淀川の大洪水で故郷が大きな被害を受けたことを知り、急いで帰郷。一面泥の海になった惨状を目の当たりにしました。これが彼の人生の転機。「こんなむごいことを二度とおこしてはならん」と法律家になる夢を絶ち、淀川の治水に生涯を掲げる決意をします。 

31歳で大阪府議会議員となった大橋は、淀川改修の必要性を国に訴えます。何度も上京し誰彼となく淀川治水の必要性を説く彼は、「陳情の神様」、「淀川屋さん」などと呼ばれました。明治29年(1896年)、ついにその熱意が実り、淀川を含む河川改修法案が国会で可決されました。

(中略)

そんな熱血の士である大橋は、また、改良工事のために土地を手放さなければならない3000人とも言われた土地所有者を一人一人説得し、工事の実現に貢献しました。

 

医療の現場もまた、「こんなことは二度とおこらないでほしい」「こういう失敗は同じように繰り返さないで欲しい」という思いがつくり上げてきたのだとつくづく思うこの頃です。

 

土木建築分野のこうした細かな歴史についてもっと知っていたら、私自身、どちらか一方に心を揺さぶられることもなく、もう少し100年ぐらいの長さで問題の本質を見ることができていたかもしれません。

 

 

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