訪ねてから2ヶ月近く経ち、散歩の記録をと思いつつなかなかその気持ちにならないのは、やはり非常事態の毎日ゆえでしょうか。
非日常が日常になりつつあって、ようやくあの散歩の目的の一つでもある太田川放水路を訪ねたことを書こうと思いました。
大事な記録である写真もiCloudのどこかへ消えてしまい、薄れていく記憶に頼りながらの記録です。
広島市を訪ねるのはこれが3度目です。
最初は小学校1年生の冬だったと思うのですが、岡山の祖父母の家で年末年始を過ごしたときに、宮島を家族で訪れた時でした。その途中で広島平和記念資料館にも立ち寄りました。
その前に原爆投下直後の広島の写真を見る機会があり、真っ黒に焦げたご遺体の写真が目に焼き付いて怖くて眠れなくなったことがありました。
2回目は、その広島平和記念資料館が目的でした。インドシナ難民キャンプで一緒に働いたアメリカ人の友人たちが、日本を旅行をしに1987年に来日し、ガイド役になって一緒に旅行しました。
彼らの一番の目的がこの広島記念資料館であったことに、私は海外のさまざまな人と出会う機会があって本当に良かったと思えたのでした。
原爆ドームの慰霊碑の前にたたずみ一緒に祈った静かな時が、三十数年も経った今もはっきりと思い出されます。
つい最近まで、その原爆ドームと広島平和記念資料館が川や運河に囲まれた地域に建っていることも、その川や放水路の歴史も知らないままでした。
*旧太田川と太田川放水路*
地図で見ると、太田川放水路はまっすぐで太いのですぐに見つけられました。
少し上流で、太田川が放水路と旧太田川に分かれています。旧太田川を下流へとたどってみると、すぐに二つに別れ、さらに広島城のあたりでまた二つに分かれていきます。
さらに原爆ドームのすぐ横で、旧太田川は元安川に分かれて平和記念公園をはさむように流れ、河口付近でまた元安川や支流と合流しています。
この平和記念公園付近では、わずか3kmほどの場所に放水路を含めて6本の川があるのです。
原爆ドームのあたりで川を見た記憶がわずかに残っているのですが、こんなに複雑な流れだったとは知らないままでした。
*太田川放水路を見て歩く*
三次ライナーで広島駅に9時32分に到着し、12時30分の呉線に乗る予定でしたから、広島の滞在時間は約3時間です。
まずは、旧太田川と太田川放水路の分流点を見ようと思いました。
アストラムラインの不動院前で降りると、目の前に太田川が見えます。少し下流へと戻ると、そこに旧太田川への流れを堰き止める大芝水門があり、その上を歩くことができました。下を向くと、けっこうな水量でした。
太田川放水路は、斐伊川放水路のような緊急時の放水用ではなく、ふつうの川の趣きで滔々と水が流れています。
そこから放水路沿いに歩く予定でしたが、実際に行って見ると堤防の上はほぼ車道しかないため、残念ながら堤防の内側の市内の道路を歩きました。
交差点に差し掛かるとかならずに右手に放水路の堤防が見え、守られていることを感じる場所です。
放水路がない時代は、豊富な水がこの住宅街を水浸しにしていたということでしょうか。
しばらく歩くと、遠くに山陽新幹線の高架が見えました。
何本か山陽新幹線の上下線が通過し、その中に見慣れない新幹線がありました。ああ、九州新幹線ですね!
すでに自粛ムードの2月下旬でしたが、あれに乗りたいと密かに火がついたのでした。
しだいに新幹線の高架が近づいて、JR横川駅に到着。ここで西広島駅へ出て、今度は路面電車の広電に乗り換えました。
広島行きの広電に乗ると、広島駅前まで太田川放水路をはじめ5本の川を横断しながら見ることができます。
三十数年ぶりの広島市内でしたが、川を中心に公園や遊歩道が整備されていて、とても美しい街でした。
ぜひぜひ、今度は旧太田川沿いを歩いて見たいものです。
太田川放水路が完成したのは1967年(昭和42)だそうですから、私が初めて広島を訪ねたのはその直後だったことになります。
そして、山陽新幹線の岡山ー博多間が開通したのは1975年(昭和50)年ですが、おそらく、この太田川放水路なしにはあの場所に高架は建設できなかったのではないかと思える、水の溢れる場所でした。
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