水の神様を訪ねる 7 桃園川と馬橋神社

街路樹が美しい中杉通りを時々訪ねたくなります。

阿佐ヶ谷駅北側の、昔からの地形と鬱蒼とした森の一部が屋敷林や鎮守の杜として残っている住宅街も、落ち着いた街で好きです。以前、妙正寺川を歩いた途中で立ち寄った馬橋公園も素晴らしい公園でした。

 

阿佐ヶ谷駅の南側には、中杉通りに沿って斜めにパール街という長い商店街があります。活気があって、ここもまた何度か訪ねたことがあります。

地図を眺めていたら、ふと、この商店街のゆるやかに蛇行した道は昔は水路だったのではないかと思いつきましたが、歴史には書かれていませんね。

 

商店街から水路だったかのような脇道がいくつもあるのは気になっていたのですが、今回はここを歩いてみようと思いました。

5月半ば、こういう商店街は「自粛が緩んで人の数が増えた」とニュースになりやすいのですが、休業中のお店も多く、今までの賑わいから見たらひっそりとしていました。

 

*馬橋稲荷神社へ向かって歩く*

 

土地勘がないところなので、とりあえず馬橋稲荷神社を目指して適当に歩いてみることにしました。

ちょっと昔の水路っぽい脇道を入って住宅街を歩き始めましたが、帰宅して地図で確認しようとしてももうどの道を歩いたのかわからないくらい、住宅街は入り組んでいました。

それが、阿佐ヶ「谷」の意味なのだと実感する地形で、途中でどこを歩いているのかわからなくなり、GPSを使いながら馬橋稲荷神社に到着しました。

 

地図では水色に描かれたところもなかったのですが、境内に入る前から水の音が聞こえ始めて、一気に気持ちが高まりました。参道の両脇に水路があります。

説明書きに以下のように書かれていました。

当社は旧馬橋村の鎮守で、『新編武蔵風土記稿』には「除地一畝十二歩小名西ノ久保にあり村の鎮守なり本社二間四方拝殿四間に二間末申の向前鳥居をたつ鎮座の年代は詳ならす」とあり、祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と大麻等能豆神(おおまとのづのかみ)です。天保二(1831)年、拝殿改築に際し氏子五十三人が拠金して、京都白川神祇伯家御役所(神社を司る役所)に上申し、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の御神号を拝受したと伝わります。明治四十(1907)年、村内の御嶽神社白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀しました。

 

どうやら「水の神様」も一緒に祀られているようです。

 

神社のある場所は少し高い場所で、階段を降りていくと暗渠の上に歩道がありました。

神社の石垣に、こんな説明がありました。

桃園川の流れに思いを馳せて

 

かつて馬橋稲荷神社の神殿の先には桃園川が流れ、田んぼが広がっていました。

馬橋稲荷神社はその河川に迫り出した台地の上に鎮座し、農耕の神として祀られていました。

桃園川は馬橋の郷にとって幾代にわたり、大切な命の川でありました。古老の伝えではその流れは清く澄み、綺麗な水にしか住まないイトヨという魚もいたそうです。

しかし関東大震災以降、馬橋は急速に宅地化し、農地が失われ、不要となった河川はコンクリートの擁壁に囲まれ本来の流域を失いました。川は生活排水のため、どぶ川となってしまいました。また度重なる氾濫により、川は蓋をされ今はその流れすら見えません。

当社では馬橋の命の川、桃園川に思いを馳せ、参道に小さなせせらぎを作りました。

ここに失われた水の流れを感じ、メダカのたわむれる小川を大切にしたいと思います。

 

参道にあった水路にこのような願いがこめられていたとは。

本殿の横の階段を降りなかったら、知ることができない貴重な歴史でした。

 

 

そして暗渠を辿ったら、期せずして水の神様に出会ったのでした。

 

 

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