散歩をする 38 <表参道から旧渋谷川へ>

神代植物公園東京の街路樹などを育てるための苗圃だったことを知って、秋になったら街路樹を見にいこうと楽しみにしていました。


ふだん気にもとめていなかった街路樹が気になったのは、80年代に暮らした東南アジアでハイウエイ沿いの街路樹でした。
ハイウエイといっても舗装道路があるだけの幹線道路といった感じですが、どこまでもどこまでも道の両脇に大きな木が続いていました。
まるで森の中を走って行くような幻想的な雰囲気が好きで、ずっと窓の外を眺めていました。
その街路樹がふと途切れると、市場や教会など街が忽然と現れるのでした。
まあ、信号もないし交差点もないような道路だから、これだけ木があっても問題ないのだろうと思っていました。


その経験から、街路樹のある道路が目に入り始めました。
甲州街道や五日市街道などにも立派な街路樹があって、東南アジアのあの風景をいつも思い出すものでした。
日本の場合、街路樹の間に信号が見えるように整備されているのが大きな違いでしたが。
私が特に好きだったのは、阿佐ヶ谷駅付近にある中杉通りでした。
こんな道が増えたら、歩いていても車で走っても心が落ち着きそうです。


都内のあの街路樹と神代植物公園の歴史がつながって、都内の街路樹についてもう少し知りたいと探したところ、「街路樹を楽しむ15の謎」(渡辺一夫氏、築地書館、2013年)という本と出会いました。


その本を読んで、まず表参道を歩いてみようと秋が来るのを待っていました。


<表参道のケヤキ


表参道というと、私たち世代にとっては竹の子族や若者がクレープを食べながら歩く竹下通りのほうが思い出される場所かもしれません。
当時はすでに同潤会アパートが取り壊しが決まっていましたが、保存を求める声があがっていた記憶があります。
現在の表参道ヒルズがある表参道は、竹下通りに比べると大人の街の雰囲気で、ちょっと気取って歩く道でした。


紹介した本には、「近代的な街路に、最初にケヤキが植えられたのは表参道である」と書かれていました。

 表参道は大正九(一九二〇)年に明治神宮の参道として完成した通りである。そして翌年の大正一〇年、参道の両側に二〇一本のケヤキが植栽された。これが表参道のケヤキ並木の起源である。とはいっても、江戸時代以前からケヤキは道に植えられており、東京都府中市大国魂神社や、豊島区の鬼子母神ケヤキ並木が、江戸時代から続いている並木として知られている。しかし、近代的な街路にケヤキが植えられたのは、この表参道のケヤキ並木が先駆けであった。

 大正時代に植えられた表参道のケヤキは、戦災でほとんどが消失してしまったため、現存するものの多くは、戦後の昭和二〇年代に植えられた木である。並木が作られた大正一〇年に植えられたケヤキで、現在も生き残っているのは、一〇本だけとなっている。現在見られる表参道のケヤキは一六〇本であるが、そのほとんどは、戦後生まれということになる。


本では、昭和34(1959)年の写真がありますが、ケヤキは人の背丈ぐらいしかありません。
私が生まれる少し前の表参道は、私が20歳の頃に遊んだ表参道とはまったく違う風景でした。
20年ほどで、表参道のケヤキ並木は鬱蒼とした街路樹にまで成長していたようです。


あれからさらに30年ほどたって、久しぶりに歩いてみました。
30年前に比べてケヤキがどれくらい成長したのかわからないのですが、少し色づき始めた街路樹は当時と同じ、道に落ち着いた雰囲気をつくりだしていました。
変化したことといえば、まるで竹下通りかと思うほどの人の流れになっていたことでした。


<旧渋谷川から千駄ヶ谷へ>


散歩に出かける前に地図を眺めていたら、表参道の原宿警察署神宮前交番の近くから、不自然に蛇行した道が千駄ヶ谷方面まで続いています。
きっと暗渠化された川だとピンときたのは、タモリさんのおかげです。


実際にその場所に行って、初めてそこが渋谷川の上流部にあたる隠田川だということがわかりました。


蛇行した道を歩くと、原宿近辺にこんなに高低差があるのかとあらためて驚くほど、暗渠化された川の片側は丘の斜面になっています。
ところどころに、橋があったと思われる跡がわかります。
1964年の東京オリンピックの頃は、さぞかし汚いドブ川だったことでしょう。
そしてさかのぼって江戸時代には、新宿御苑から玉川上水の水が流れて水車があった。
そんな風景の変遷を想像すると、人間と水のつき合い方の歴史がまた少しつながって見えたような気がしました。


穏田川が外苑西通りにぶつかる所までくると、そこは建設中の国立競技場が見えました。
きっと新しい国立競技場の周辺にも街路樹が植えられて、時とともに街の風景が落ち着いていくのかもしれませんね。



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