川越市の高台をぐるりと囲むように新河岸川が流れていることがイメージできました。
おそらく、高台に川を見下ろすような場所に建てられたに違いありません。
今回は新河岸川の上流にあるこの二つの氷川神社を訪ねることにしました。
地図を眺めていると、その名も「新河岸」駅があります。ここから歩き始めることにしました。
*新河岸駅から新河岸川へ*
新河岸駅の案内板で、私の地図には描かれていなかった氷川神社があることを見つけました。
駅からまっすぐ歩くとじきに広い畑があり、今が旬のブロッコリーが植わっていました。
そのあたりから新河岸川の方へと下り坂になっている途中に、氷川神社がありました。由来は書かれていなかったのですが「砂氷川神社」で、境内はきれいに手入れされていました。
緩やかに下り坂を降りていくと新河岸川のそばに出ました。
そこから新河岸川の美しい堤防の左岸側を歩きました。
あの川越線の車窓から見えた水田地帯が広がっている場所です。
しばらくすると「扇河岸」という場所で、不老川と合流する場所が見えてきました。
川越線を越えると高台の部分が近づいてきて、左岸側には仙波浄水場と新河岸川上流水循環センターがみえてきました。
この辺りになると、新河岸川は運河のように護岸されて、川にはそれほど水量はありませんでしたから、水田地帯の真ん中にあるあの浄水場はどこから取水しているのでしょうか。
*仙波河岸史跡公園と氷川神社*
高台側の右岸を歩くと、住宅街の中に森が見えてきます。入り口を見落としそうになりましたが、そこに仙波河岸史跡公園がありました。
木板の遊歩道が、周囲とは別世界のような雑木林の中へと続いています。
公園内は段丘の端にあり、以前は湧水が豊富だったようです。
園内の池のそばに説明書きがありました。
昔この場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中頃まで流れていたそうです。
「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。
国道16号線を渡ると、見上げるような石段を登り、仙波氷川神社があります。
当社の起源は古く、平安時代中期にまでさかのぼる。社伝によれば、後三条天皇の御代の延久元年(1096)、当地の武士仙波氏の創建とされ、代々にわたり、同氏の篤い崇敬を受けた。
*川越氷川神社まで*
仙波氷川神社のある高台から再び下って、また新河岸川沿いに歩きました。この辺りになると新河岸川の中流域の美しい土手とは異なり、都市部の小さな川の様相になり、近くの道路にも車が多くなりました。
そして川沿いの道は途中で細い車道になって忽然と歩道部分がなくなったり、道も途切れて迂回しなければならなくなったり、あちこちに投げ捨てられているゴミが増えたり、バイパス沿いのモーテルに入る車に乗っている人と目があってしまったり、いやはや歩くのにもちょっと疲れました。
ただ、左岸側の田畑の多い平地にそうしたバイパスができた開発の歴史や、右岸側は住宅地とは雰囲気が違うのも、地形が関係しているのだとわかっただけでも面白いものです。
しばらく歩くと、右岸側に森が見え川越城がある公園地帯が近づいてきましたが、ここで右岸側の歩道がなくなってしまい、公園を迂回してまた新河岸側沿いへと戻りました。
そろそろ歩き疲れてきましたが、もう少しで川越氷川神社です。
元気を出して緩やかな坂を上り川越氷川神社に入ると、なんと境内はいっぱいの人で、大半が若い女性の観光スポットになっているようでした。
由来を探すのはやめて、そのまま新河岸川へと戻りました。
ここからしばらく桜並木が続きます。
観光向けの並木道が途切れると、また住宅と畑に挟まれた新河岸川沿いの風景です。
あの円を描くような場所になり、少しずつ左側へと流れが変わるあたりで、また水量が増えはじめ、古い農業用水用の取水堰がありました。
このあたりで、私が子どもの頃に遊んだ秘密基地を流れる沢を思い出すような美しい水になりました。
次第に川幅も狭くなり、川に沿った道もなくなって住宅の間に新河岸川が見えなくなりました。
星野高校の裏手あたりで「赤間川」という表示を見つけたので、このあたりが新河岸川の始まりでしょうか。
今回は、新河岸川上流の3つの氷川神社を訪ねることができました。
そうそう、以前川越について何か書いた記憶があると思ったら、「ウォーターボーイズ」はこの川越を舞台にしていたこととつながりました。
あのプールの水はどこから来たのでしょうね。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。