少し間があきましたが、羽村からの導水管を訪ねて歩いた続きです。
箱根ヶ崎駅のある瑞穂町は、以前から散歩の計画ノートに書き込まれていた場所です。
駅の北東にある狭山池公園の水色の部分、そして、そこから流れる残堀川が途中、西武拝島線のあたりで玉川上水と交差していることが気になっていて、いつか歩いてみようと思っていました。
また、二つの貯水池と多摩川との位置関係がいまだに混乱することがあるので、この辺りの地図を眺めることが多いのですが、山口貯水池(狭山湖)の西端に小さな川と導水管のような水色の線が描かれ、それをたどると埼玉県の県境が細長く東京に入り込んだ場所が描かれています。その延長上に、この箱根ヶ崎駅周辺地域があります。
ここを小作取水堰からの導水管が通っているのではないかと推測しているのですが、地図ではなかなかその痕跡は見つかりません。
米軍横田基地で途切れる羽村取水堰からの導水路へ向かう途中、この狭山池を訪ねてみようと思いました。
*狭山池公園*
箱根ヶ崎駅から2~3分で青梅街道に出ます。そこに園福寺があり背後の急な斜面が墓地になっています。
狭山池方面への道は、この小高い場所を切り通してできた道のようです。
下っていくと、狭山池公園への入り口があり、対岸はまた崖のように高くなった場所に挟まれた間を残堀川が流れていました。
ただ、狭山池のもう少し上流側は平地が広がっていて、想像したほどの「谷津」の地形でもありませんでした。
池のそばの説明板にはこんな歴史が書かれていました。
狭山池
この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となったところである。大雨が降ると周辺の水が集まり、丸池を中心とした約十八ヘクタールは水びたしになり粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝地になっていた。
鎌倉時代の歌集八雲御抄に「筥(はこ)の池、武蔵国」とあり、同時代の未木集(ふぼくしゅう)に
冬深み 筥の池辺を朝行けば
氷の鏡 見る人ぞなき
と詠まれ、古くから世に知られた池であった。
農耕不適の広い芝原は、天明の打ちこわしの集合場所や、幕末の農兵訓練の場所ともなった。
江戸時代のはじめ狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした。
その後、文化四年(一八〇七年)に大掛かりな池さらいをした記録がある。そのため池の水位が下がり現在の規模となった。
蛇喰(じゃっくい)次右衛門の伝説もこのような事情から生まれたものであろう。
明治から昭和にかけて芝池の大部分は農民に払い下げられたがのこった池およびその周辺(約1~2ヘクタール)は、昭和二十六年に都立狭山自然公園に指定された。
その後、昭和五十八年箱根ヶ崎より町が譲りうけ、公園として生まれ変わり町民の憩いの場所となった。
「筥(はこ)」という漢字を知らなかったのですが、「米を入れるための竹のかご」(weblio日中中日辞典)だそうです。
「筥の池」については、狭山池公園(東京)に説明がありました。
狭山池全体が筥の池と呼ばれることがある。これは、池の東側から南東側に高さ2〜4メートルある立川断層崖が続き、南側から西側にかけては円福寺川が伸びていた伸びていたことから、箱の底のようなところに池があったからである。
あの青梅街道の交差点から見た圓福寺の墓地が印象にのこったのですが、あのあたりがこの立川断層崖だったのでしょうか。
さらに印象的だったのは、その急な斜面の墓地に隣接して、住宅が建てられていたことでした。
新しい家に見えましたから、崖っぷちに家を建たせる技術が進んだ最近の変化かもしれませんね。
「古多摩川」「大雨が降ると水びたし」「農耕不適の広い芝原」「幕末の農兵訓練」といった言葉と今の風景が繋がるには、あまりに歴史を知らなさすぎました。
ただ、「江戸時代のはじめ狭山丘陵から流れ出す残堀川に狭山池の水を流し、玉川上水の助水とした」という一文に出会っただけでも、訪ねてみてよかったと思いました。
その残堀川に沿って、しばらく歩きます。
「散歩をする」まとめはこちら。