水のあれこれ 173 「水を導く」

水土里(みどり)ネット愛知のホームページの「愛知の農業用水」に、「水を導く」があります。

ちょうど私が生まれる前あたりからの、愛知県の用水の歴史がまとめられていました。

 

敗戦の疲弊から立ち上がりつつあったわが国では、米を始めとする食糧を増産し、農業の近代化を図るため、大規模な用水の計画が相次いで進められました。

 

木曽川では、昭和32年愛知用水の工事が開始され、昭和41年になると木曽川の工事も始まりました。矢作川では、羽生ダムの建設が昭和27年から始まり、ダム完成後の昭和38年から矢作川用水の工事が開始されました。さらに、昭和45年からは、明治用水の改修を含む矢作川総合用水の工事が始まりました。

 

豊川では、豊川用水の水源である宇連ダムの建設が昭和24年から始まり、昭和36年には用水路工事が本格的に始まりました。

 

「夢の用水」といわれた愛知用水を始め、これらの用水のほとんどは川の遥か上流の山奥に大きなダムをつくり、平野部はもちろん、深刻な水不足に悩まされていた知多半島渥美半島の先端まで農業用水を導き、さらに飲み水や工業用水などの都市用水にも使えるよう、いわゆる「総合利水開発計画」として工事が進められました。

 

こうした総合用水の完成により、愛知県の農業は飛躍的な近代化をとげ、施設園芸を筆頭に全国屈指の農業地帯が形成されました。また、農業だけでなく、昭和30年代後半から始まった高度経済成長に伴う都市用水の増加にも対応し、工業の中心地として今日の姿が築かれたのです。

 

また、木津用水と宮田用水では、水路周辺が都市化し、家庭雑排水等が流れ込むようになり、水質汚濁が問題となったことから、昭和44年から始まった濃尾用水二期事業により、水路のパイプライン化(開水路を導水路にする)が行われました。

 

 

2年前に豊川周辺を散歩した時の記憶と、今回の明治用水愛知用水を訪ねた時に見た風景が、この文章と重なりました。

 

90年代にあちこちのダムを見に行った時にはまだ、私が生まれる前と生まれた頃の時代はどんなものだったのか、知っているようで知らないことがほとんどだったのだと、もう一度こまかな事実をきちんと出していくことが重要という言葉を思い出しています。

 

「水を導く」

その「夢」が飛躍的にかなったのが1950年代以降だったとも言えるのかもしれませんね。

1990年代まで、私は水を導くことも驚異的に変化する時代のまっただ中にいて、見えていなかったのかもしれません。

 

 

 

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