三河安城にあるクラボウの工場はいつ頃できたのだろうと興味が出て検索していたら、クラボウのホームページの「クラボウヒストリー」を見つけました。
豊かさとか貧しさとかに書いたように、子どもの頃から「倉紡」や「大原一族」を耳にしていたので、倉敷の大富豪、そして江戸時代からの天領としての経済的に豊かだった歴史が書かれているのだと思ったら、全く世界が違っていました。
江戸時代、干拓地であった倉敷一帯では、塩分に強い綿花を栽培し綿商品などの交易によって大いに栄えていました。しかし、米と綿花の集散のほかに取り立てた産業を持たないまま明治時代を迎えた倉敷村は、税金高や水禍、疫病により、働く場もない貧村へと陥ることに。そんな状況の中、国内では政府主導で次々と紡績工場が設立されていました。そこで「倉敷の地こそ紡績会社を設立すべき」と、倉敷の現状を憂えていた20代の青年3人が計画を立て、倉敷随一の豪家であった大原孝四郎がそれに賛同、出資。新しい事業の設立を知った多くの県民が共鳴して多数の株式引受の申し込みが相次ぎ、不足分を孝四郎が引き受けることで事業化の目処が立ちます。1888年3月9日、孝四郎を初代社長とする「有限責任倉敷紡績所」が創設。翌年には英国式最新鋭の紡績設備を備えた倉敷本社工場(現・倉敷アイビースクエア)が竣工され、ここにクラボウの大きな一歩が踏み出されました。
「米と綿花の集散の他に取り立てた産業を持たないまま明治時代を迎えた倉敷村は、税金高や水禍、疫病により、働く場も持たない貧村へと陥ることに」
そんな時代があったとは、思いつきもしませんでした。
1888年(明治22年)に倉紡が設立され、その23年後の1911年に私の祖父は生まれています。
四半世紀も過ぎれば、祖父が物心ついた頃には貧村だったことさえ信じられないくらいの発展をしていたのかもしれません。
祖父の水田の歴史を知りたくなって、倉敷や岡山の干拓地を尋ねるようになりました。
昨年は母の記憶にある鶴形山に登りましたが、そこからアイビースクエアーの煉瓦の建物が見えます。
江戸時代からの倉敷の栄華の象徴だと、ずっと思っていたのでした。
「貧しくはなかった」という一言も、母や祖父母が生まれる前からの歴史がどこかに影響しているのかもしれません。
そういえば、美観地区で夕食をとった時に、私よりひと世代ぐらい上の方に「祖父母の家は〇〇にありました」と伝えたら、「ああ、あの辺りは裕福な土地だから」と言われたことが気になっていました。
貧村から今の繁栄に至るまで、地域によっても温度差があったのでしょうか。
三河安城を訪ねていなかったら、クラボウヒストリーを知らないままでいたかもしれません。
そしてふと、鶴見良行さんの「中央歴史主義史観への批判」を思い出しました。
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