水の神様を訪ねる 49 八雲の氷川さま

都立大学駅で降りて、南西の遊歩道へと向かいました。

都立大学駅付近は初めて歩くような気がしていたのですが、駅に降り立って見て、以前歩いたことがあることを思い出しました。

今回歩く予定の遊歩道ではなく、駅の北東側から柿の木坂方面の東京医療センター駒沢公園のそばへと出る遊歩道があります。数年前に、そちらを歩いたのでした。

 

目黒通りを渡ったところに、遊歩道の地図がありました。

前回歩いたのが「呑川柿の木坂支流線緑道」で、今回歩くのは「呑川本流緑道」でした。

さらに今回目指す氷川神社の西側からもう一本、駒沢公園方面への緑道があり「呑川駒沢支流緑道」と記されていました。

 

そういえば東横線の車窓から、都立大学駅の手前が切通しだったことが目に入りました。小高い場所が複雑にあり、その脇を呑川の支流が流れていたのですね。

 

目黒通りで切断されている遊歩道の入り口に、「二子道(ふたごみち)を走ったガタクリ馬車」という説明がありました。

八雲の氷川神社前から目黒駅までー。今は目黒通りに、名前を変えた区間約5キロを、明治の末ごろまで乗合の定期馬車が通っていた。黒塗り一頭立て。ペーポーと笛の音。日に6回ほどの運行だったが、石ころだらけでガタガタ道。馬車は右に左に激しく揺れた。それでついた名前が「ガタクリ馬車」。時は流れ、今はその同じ道を"現代の馬車"クルマが走る。

 

目黒通りに馬車が走っていたのはいつ頃までだったのでしょう。

そんなことを考えながら緑道に入ると、木陰で一気に涼しい空気になりました。

緑道の両脇に桜が植えられていて、「目黒区立八雲小学校 開校百周年記念樹 (サクラ6本) 昭和49年2月23日植樹」と記念碑がありました。

 

東京オリンピック駒沢公園が造られた頃はまだまだ周囲は畑が多く、その後国道246号線とそのうえを走る首都高3号線が整備されると、一気に都会や住宅地の風景に変化した頃でした。

1974年(昭和49)、この遊歩道のある場所はどんな風景だったのでしょう。

まだ小さな水の流れが残っていたのでしょうか、それともすでに暗渠になっていたのでしょうか。

 

*八雲の氷川さま*

 

住宅街の中、誰も歩いていない静かな遊歩道に涼しい風が吹き、桜の葉の音が聞こえています。

そういう場所に、氷川神社がありました。

 

参道は緩やかに上り坂になって、周囲よりは少しだけ高い場所にありました。

鎮守の森の中は別世界です。

遊歩道ではほとんど人と出会わなかったのに、休日の午後、参拝者が途切れることなくいました。

 

御由緒の書かれたパンフレットがありました。

 元明天皇慶雲四年(七〇七年)九月十九日奈良時代に村人が勤労奉仕で建造、その後文化(一八〇四年〜十八年)、安政(一八五四〜六十年)頃に今の規模の大きさに作られた。

 当社は旧衾村の鎮守様で八雲の地名も須佐之雄尊の有名な歌「八雲立つ出雲八雲垣妻籠みに、八重垣作るその八重垣を」の"八雲立つ"から来ています。境内には大変古い樫の木が社殿の周囲に有ります。その昔大国主尊が草木にて薬を製し諸病を治れた事や、須佐之雄尊が悪神を切り従えられたという神話が元になって、当社も諸病を封じていただけるということで、昔は荏原郡一帯(大井、品川、大森等)、今は関東一円より参拝に来られます。特に御神木のアカガシの木をけずり煎じて飲むと癪や咳に効くと言われていました。(今は代わりに神符を授与しています。)

 秋の大祭には須佐之雄尊(素戔嗚尊)の八岐大蛇退治を表した「剣の舞」と言う重要で優美な様式を今に伝える神楽が奉納されます。(目黒区無形文化財

 

どうやら八雲の氷川さまは、「癪(しゃく)封じの神様」のようです。

 

呑川の支流が三方から集まるこの地の、奈良時代からの風景の変化をぜひ見て見たい。

以前、中目黒駅から目黒川沿いを歩いたときにふらりと立ち寄った歴史資料館に、資料があるでしょうか。

 

 

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