散歩をする 377 根川緑道を歩く

ここ数年、プールが閉場している年末年始はだいたい湧水を巡る散歩をしています。

「水で清める」「清められる」という言葉の意味が、年々、自分自身の中で深まっていく感じです。うまく表現できないのですが。

 

昨年8月下旬に都内の水田をみようと百草園駅から高幡不動駅までの水田を歩いた時に、帰りのモノレールから見えた遊歩道がずっと気になっていました。

そこを訪ね、そして府中用水の始まりを見てママ下湧水を訪ね、体力が残っていたら矢川緑地まで歩こう。

そんな計画ができて、昨年、大晦日に歩いてみました。

 

*根川緑道*

 

立川駅からモノレールに乗り換えて柴崎体育館前で下車すると、駅が断崖に建っているのがわかりました。

 

坂を下ると目指した遊歩道がありました。

広々とした敷地に小さな水の流れのそばは石や植物がきれいに整備されていて、水の上に東屋(あずまや)もありました。すっかり大都市の風景になった立川駅周辺からほど近い、立川段丘の境にこんな場所ができたとはと四半世紀の時を感じました。

 

案内板がありました。

根川緑道のはなし

 根川は立川段丘の崖線(がいせん)の湧水を集めた小川でしたが、明治26年に残堀川と合流して、水量も増え、憩いの場として親しまれていました。昭和10年に氾濫防止の改修工事が行われました。

 その時、堤にサクラが植えられ、それ以降花見の名所となりました。しかし、その後も氾濫が繰り返されたため、昭和47年に多摩川への流路変更が行われ、その一部が埋め立てられました。

 埋め立てられた根川は昭和48、49年に小川の流れる根川緑道として整備が行われました。

水路には井戸水と下水道砂濾過水(すなろかすい)を混合して1日250㎥の水が流れ出ていました。

 平成3年に、建設省の下水道水の有効利用・アクアパークモデル事業の指定を受け、立川市錦町下水処理場より無色・無臭の高度処理水を1日2,700㎥流せることとなり、平成4年から平成8年の5箇年で根川緑道の全面改修整備を行いました。

 現在の流れは人工的に創られた水路ですが、豊富な高度処理水を用いて小川や水辺を再現し、かつての根川に生息していた魚や水性生物が棲める環境をつくる工夫を行っています。

 

地図で見ると、あの残堀川の途中から暗渠になり遊歩道ができています。

「富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川」がこの場所だったと、つながりました。

 

*錦町下水処理場、そして多摩川へ*

 

残堀川からこの小川が始まるところまでがAゾーン、そしてこの小川から錦町下水処理場までがBゾーンで、芝生の公園内に小さなせせらぎが続いていました。

晦日で皆さん気忙しくしているのか、園内はひっそりしています。

 

しばらく歩くと、小川を模した水路は忽然と終わり、車道の下の通路をくぐると右手に錦町下水処理場があります。ここからの再生水が流れているようです。

左手には、段丘の続く場所の下に池がありました。暗渠からの水と小川の水、そして昔からの段丘からの湧水などが混ざった池でしょうか、ここまでがCゾーンとのこと。

また道路を越えると、そこからはDゾーンで普通の川のようですが、堤防には早咲きの水仙が咲き水鳥も遊び、美しい遊歩道です。多摩川に合流する直前に、ちょっと渓谷のような雰囲気の場所に橋がかかっていました。

 

根川貝殻橋について

 甲州街道は、江戸時代初めの慶長8~10年(1603~1605)に整備された。初め、江戸日本橋甲府山梨県)を結んでいたが、後に下諏訪(長野県)まで延長された。

 この甲州街道多摩川を渡る「渡し」は、何度か移動され、それにともなって甲州街道の道筋も変わったことが知られている。

 そのうち、長安年間(1648~1651)から享保元年(1684)まで使われていたのが「万願寺の渡し」である。台地の上をたどってきた甲州街道は、国立の青柳で段丘を下り、多摩川の河原に下りた。この段丘を下る坂を、昔は「貝殻坂」と呼んでいた。(現在は、普済寺の西側、富士見町五丁目にある番場坂を貝殻坂とも呼んでいる。)

 貝殻坂の名は、江戸時代に発行された「四神地名録(ししんちめいろく)」「武蔵国名勝図絵(むさしのくにめいしょうずえ)」「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」「武蔵野話(むさしのばなし)」などの書物の中にみられる。そのうち、文政11年(1828)に完成された「新編武蔵風土記稿」の柴崎村(現在の立川市)の項には

 「貝殻坂、青柳坂と当村との界にあり、土中を穿てば蛤の殻夥(おびただ)しく出づ。

 土人(ところのもの)の話に古へはこのあたりも海なりしと云ふ。」

と記されている。

 よって本橋を貝殻坂にちなみ根川貝殻坂橋と名付けるものである。

 

貝殻坂橋から100mほど先で、根川は多摩川の流れの一部に合流していました。

 

 

*小さな川の半世紀*

 

根川緑道として整備されたのが1973(昭和48)年からのようですが、下水道の歴史を振り返ると「1970(昭和45)年の下水道法の改正、公共用水域の水質保全に資する」という時代によるものでしょうか。

そしてその法律をたどると、1958(昭和33)年の新下水道法、「都市の健全な発達及び公衆衛生の向上に寄与」があり、半世紀後、一世紀後の都市の下水処理を見越した計画がつくられていったのですね。

 

1990年代初めの頃に、多摩川左岸のこの辺りを歩いた記憶があります。

堤防沿いはまだ空き地が広がり、当時増え始めた大きなマンションがポツンとあるくらいで、少し離れた場所からも日野橋が見えました。

久しぶりに歩いてみて、当時とは全く違う風景に驚きました。

 

ただ、あの頃にはすでにこの根川緑道があり、水辺に近い場所に住宅地が広がるための準備が着々と進んでいたことになります。住宅が増えても安全で、そして川の水も汚さず、そして自然も残すために。

 

そのちょっと前までは、多摩川の対岸に行くことさえ大変で、さらに遡るとこの辺りは海だった時代もあり、わずか20分ほどの道のりでしたが時代を行きつ戻りつすることになりました。

 

 

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