「川崎市水道事業の概要」書かれていた「市域の拡大、人口の急増、産業活動の進展などによる水需要の増大」という一文から、そうだ、私が知っている川崎は遥か昔の姿だと、まるで浦島太郎のような気持ちになりました。
改めて地図を見ると、川崎市というのは広いですね。
子どもの頃から小田急線を利用していたので、私にとって川崎というのは登戸のあたりのことでした。
当時はまだ新百合ヶ丘は雑木林でしたから、町田から山の中を列車が走り抜けて市街地が広がり始めるのが登戸で、ここまでくると対岸の東京のような街の姿になりました。
川崎市の中心部はもっと海岸よりで東海道本線の川崎駅あたりという知識はありましたが、初めて川崎駅に降り立ったのが1980年代半ばでした。
東南アジアから一時帰国した時に、当時ぼちぼちでき始めていたウィークリーマンションが川崎にあったので泊まることにしました。
駅西側のその建物を目指したのですが、駅前だというのに広大な工場の敷地が広がるちょっと人里離れたような場所でした。
武蔵小杉も2000年代半ばまでは再開発前の工場の跡地が広がる場所でしたが、川崎市の「中心部」も1980年代はそんな記憶があります。
まあ、川崎に限らず全国どこでも、1980年代はまだ都市化もそれほどではなかったのかもしれません。
数年前に久しぶりに京急線に乗って川崎駅の周辺を通過した時に、大都会になっていてびっくりしました。
ウィークリーマンションの住所は川崎市幸(さいわい)区だったのですが、その年表を見ると記憶もまんざら間違いではなかったようです。
1988年 明治製糖工場跡地再開発を巡ってリクルート事件が発覚
1995年 明治製糖工場跡地にソリッドスクエアが開業
たしか、宿泊していたあたりには東芝の大きな敷地があった記憶があります。
2000年 東芝川崎事務所(1998年堀川町工場・川崎本社から改称)が全面閉鎖
玉手箱を開けたような変化でしたが、水の需給もどれだけ影響を受けるのでしょうか。
最近、ほんと浦島太郎の気持ちとはこういうものなのかと思う機会が増えました。
ところで、Wikipediaの川崎市に、私の「10年ひとむかし」の感覚をはるかに超えることが書かれていました。
これを書かれた方はお幾つの方でしょうか。
荒ぶる多摩川によって村が二分されてきたのも、そう昔の話ではないのかもしれませんね。
「10年ひとむかし」まとめはこちら。