ここ数年で、奈良をだいぶ歩きました。
最初のきっかけは大阪の淀川放水路を見たあと大和川沿いに奈良に入った時で、中学校の修学旅行、1980年代に友人といった時からだいぶ時間がたって人生で3回目の奈良でした。
目的はどちらかというと大和川の川合を見てから二日目に米原の近くの地蔵川を訪ねることでしたから、奈良駅周辺はちょっと途中下車しただけという感じでした。
なんとなく記憶にあった興福寺そばの猿沢池を歩き、近くの荒池もついでにどんなところか見てみようぐらいの思いつきで訪ねたところ、「荒池の由来」で見ている風景が一変したのでした。
過去の繁栄していた都の歴史で観光地として存在している奈良のイメージしかなかったのに、いにしえより水に乏しい土地柄であったという一言で、地図に描かれている水色の箇所が浮かび上がって見えるようになりました。
東大寺周辺にもいくつか池がありますが、栄華を極めたお寺が庭園のために池を作ったのだろうぐらいに思っていました。
最大限に地図を拡大すると、南側の山から細い水色の流れがあるため池でした。
*大仏池はいつ頃造られ、どのように使われていたのだろう*
佐保川側から大仏池を訪ねると、大仏池の南側へは戒壇堂へと急な坂道で東大寺の敷地、そして水門町へと続いています。
西側はこちらも坂道を降りると転害門のあった雑司町あたりの平らな住宅地になり、地図ではそちらへと水路が伸びていますから、佐保川左岸側のこの地域へと使われていたのでしょうか。
大仏池で検索してもあまりその歴史は見つかりません。
Wikipediaの「奈良きたまち」の中に、「大仏造営の際、このあたりで使用後の水銀を処理したという言い伝えが残る」とありました。
また奈良市のホームページの「No.1 奈良県庁屋上広場から奈良市、山並」の中に大仏池の「歴史的背景」として以下のように書かれていました。
大仏池
「多門日記」によると、天正17年(1589)、油阪・芝辻村の用水のため上下両池を造ったとされている。大正13年(1924)、正倉院の防火用水池として上下両池は一つの池に改修された。
「油阪」「芝辻」という地名が残っているのは、JR奈良線と近鉄奈良線が交差するあたりで、ちょうど国道369号線沿いの開化天皇陵の北側のようです。
どのような用水路があり、どのような雰囲気だったのでしょう。
*「工場跡」の歴史*
大仏池から西側へと坂道を下りて戒壇堂へと曲がるところに「工場跡」という史跡があり、気になったのですがもう足の疲労感も限界で先へと急ぎました。
検索したところ、「ようこそ工場跡へ」というサイトがありました。
東大寺戒壇院裏に静かに佇むこの場所はどこか懐かしく、なぜか研ぎ澄まされた空気が流れています。かつて、この場所では人々の健康長寿を願い乳酸菌飲料や食用菌類の研究及び製造が行われていました。製造休止後30年近くの休息を経て、平成21年11月3日あらたに「工場跡」として新しい時間(とき)を刻み始めました。ここを訪ねる皆さんが"時を超えて大切にしておきたい何か"を感じていただける場所になればと願い多くの職人さん達のチカラを残しながらRenovationしました。90年間変わらないこの建物を空間を皆様とともに共有し、大切にしていきたいと思います。
そして「工場跡」の不変と成長を私たちと共に惜しんでいただけましたら幸いです。
「製造休止後30年近くの休息を経て」
この時間の流れが奈良らしいですね。どんどんと古くなったものが壊されて風景が変わってしまう現代に、30年はちょっとした休息であり、こうした「跡」もまた不変で成長していくものであるというその感覚が。
さらに「HISTORY」にその「跡」の意味が書かれていました。
百年ほど前、日本が物質的に豊かでなかった時代、人々の健康長寿を願い、乳酸菌を研究してヨーグルトドリンクを製造していました。「太って健康になる」とネーミングした乳酸菌飲料「フトルミン」。昔の書簡を紐解くと、医師の紹介により脊髄カリエスなど、当時はまだ不治の病や病弱で困っていた全国の方々のお役に立っていたようです。明治、大正、昭和、時代の流れとともに、昭和50年代半ばで、その役割を終えました。
「脊髄カリエス」、あの吉村昭氏や三浦綾子氏の小説で何度も目にした言葉で、かかれば死を覚悟したその怖さが蘇ってきます。
今になると、私の世代はちょうどギリギリその病から解放された世代だったことがわかるようになりました。
そして十分な食べ物がない時代から飽食の時代へと、人類が経験したことのない時代になりました。
大仏池とその流れをたどっていたら、医療の歴史にもたどり着きました。
あの池からの水路があったので、この工場ができたのでしょうか。
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