小金井公園へ初めて行ったのは、1980年代後半でした。
幼稚園から高校生まで山や森や湧水があたりまえにある場所で生活していたので、都内で再び暮らすようになってからこうした公園を見ると、開発し過ぎたことの反省から「人工的な自然」を作っているかのように見えました。
私の幼少時の記憶以上に、まだまだ都内が森林や田畑に覆い尽くされていた時代から公園が作られた東京の公園の歴史を、その頃は全く知りませんでした。
小金井公園の前に流れる、玉川上水という名前を知ったのはこの時です。清流復活事業で整備されてまもないころになります。当時は、何も知らずに「自然が豊かな場所が東京にも残っている」と無邪気にも思っていたのでした。
今回、小金井公園の周囲を歩いてみて地形に驚くとともに、玉川上水と江戸時代の新田開発の記録がそこかしこに残されていることを知りました。
*玉川上水と新田開発*
玉川上水から離れて住宅街を歩くと、いくつかの説明板がありました。
川崎平右衛門供養塔
川崎平右衛門定孝(1694~1767)は、押立村(府中市)の名主で、元文三年(1738)の武蔵野新田の大飢饉に際し、私財を投じて救助に当たりました。その功により幕府の武蔵野新田世話役に登用され、南・北武蔵野新田八十二か村の復興に力を尽くしました。当時、ここから西へ約四百メートル程のところに南武蔵野新田のための陣屋が置かれ、平右衛門の手代高木三郎兵衛が常駐していました。
この供養塔は、寛政七年(1795)、関野新田・鈴木新田等に入植した農民が川崎氏の生前の徳を偲んで建てたものです。碑には平右衛門の戒名(霊松院殿忠山道栄居士)と命日(明和四丁亥天六月初六日)が刻まれています。
南武蔵野新田開発 陣屋跡
江戸幕府は、享保七年(1722)から本格的な武蔵野の新田開発に着手し、南北武蔵野八十二か村に及ぶ大規模な開発事業を行いました。
しかし、度重なる凶作により開発が困難になったため、元文四年(1739)、寺社奉行大岡越前守忠相は、押立村(現府中市)名主川崎平右衛門定孝を武蔵野新田世話役に登用しました。この開発を指導するための陣屋が南武蔵野の関野新田(げん小金井市関野町)と北武蔵野の三角原(現鶴ヶ島市)に置かれました。
関野新田の陣屋には平右衛門の手代高木三郎兵衛が常駐し、同新田名主甚左衛門らと新田農民の世話に当たりました。
当時は、北側に関野陽水が流れ三方に土塁が廻り、内側には陣屋や井戸があったといわれています。
私が生きてきた数十年というのは、飢饉という言葉を歴史でしか知らない夢のような時代だったのだと、改めて思いながら読みました。
*小金井公園の歴史*
「東京の公園の歴史を歩く」によれば、小金井公園が整備されたのは昭和14年(1939)の「東京緑地計画」によるようです。
これが現在の水元公園・神代植物園・舎人公園などになっています。
昭和14年ですから、「防空緑地の名のもとに事業化」として以下のように書かれています。
ただし、土地買収が進んだ要因は戦時体制の進展と関係がある。そもそも東京緑地計画が、当初レクリエーション地計画の側面が強かったものの環状緑地帯を強調するように変化したこと自体も戦時色と関係があると思われる。さらに買収を進める国の補助金を得るために、緑地は昭和12年(1937)に公布されていた防空法に基づく防空緑地として読み替えられた。 (p.61)
戦後間もなく、昭和29年(1954 )に開園した小金井公園について以下のように書かれていました。
小金井桜で知られる桜堤を持つ玉川上水に近い当地は、主に享保期の新田開発になる農地であったが、昭和15年(1940)から2年足らずで計画面積約90haのほとんどが買収され、小金井大緑地となった。戦後はその4割が農地解放の対象となった。昭和15年に皇居前広場で行われた紀元2600年の式典で用いた建物「光華殿」(現在・江戸たてもの園ビジターセンター)が翌年から移築されたが、まずその周辺が昭和29年(1954)に都立小金井公園となり、昭和34年(1959)からは土地の再買収が始まり概ね戦前の規模近くまで回復してきた。
敷地の北辺は石神井川の上流端であり、一方で南辺に沿った玉川上水は台地の高いところを通るので、公園全体の土地が川にゆるく下りていく江戸の新田時代の記憶をとどめている。(以下、略) (p.69)
江戸時代からの歴史と戦前からの紆余曲折を知り、そして実際に歩くことでそれまで平面にしか見えなかった地図の緑の場所が、少し立体的になりました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。