散歩をする 385 日生(ひなせ)

姫路駅で、新幹線からJR山陽本線播州赤穂駅行きに乗り換え赤穂線で最初の目的地に向かいます。

最近も姫路に宿泊して何度か立ったはずの姫路駅のホームなのに、どちらが東か西か、一瞬、方向感覚を失いました。なぜだろうと確認するまもなく4両の列車が入ってきて、さらに4両が連結されて出発しました。

 

街の風景の中に水田がところどころ残り、英賀保(あがほ)という読めない駅名をすぎるとあの清流播磨五川のうちの夢前川を越えました。この辺りはコンクリート張りの都市河川で河口付近に工場地帯が見えますが、少し上流の姫新線沿線では美しい川の風景が残っていたことを思い出しました。

はりま勝原駅のあたりからは水田や畑が増え、網干(あぼし)の車両基地を過ぎると林田川を渡り、新幹線の高架と交差していよいよ揖保川の風景です。たつのの水田や家が見え、相生から西相生と、つい最近歩いた場所を車窓から懐かしく眺めているうちに、千種川が見えてきました。周辺の水田では田おこしをしていました。

 

播州赤穂駅赤穂線に乗り換えました。翌日訪ねる予定の、広島の福山駅まで行く長距離列車のようです。

あちこちの路線に乗るようになって、なぜ行き先がそこなのだろうという経緯を知りたくなりますね。どんな歴史や生活があって、列車はその目的地まで行くのでしょう。

 

 

*漁師の町日生*

 

赤穂線に乗って14分で、最初の目的地である日生(ひなせ)駅に到着しました。

前回の散歩で、目の前に静かな瀬戸内海が広がっている、いつか歩いてみたいと思った駅です。

平日でしたから、鄙びた駅に降りる人は少ないだろうと思っていると、案外と下車していました。

 

駅前に「瀬戸内海の漁師町 アマモ場再生の聖地 日生へようこそ」という案内地図がありました。目の前に見えた島は一つではなくて、「日生諸島」でした。ひとつひとつの島を訪ねみたいと思う案内図です。

 

磯のかおりと春の花々の香りと、海の静かな気配に満足しながら歩くと、日生市民会館のそばに海を眺められるような東屋がありました。歩道には魚の絵を焼き付けたタイルがはめ込まれています。

それだけで、なんだかこの街を好きになりそうです。

 

その目の前に標高125mの小高い山があって、その反対側に目指す加子浦歴史文化館があります。山を切り崩して海岸ギリギリに家やマンションが建つ通りを歩くと、ふと開けて平らな住宅地になりました。

あちこちから良い香りがしてきます。海の幸を料理するお店がここかしこにあり、結構な人が訪れていました。

車窓からの、1970年代ごろに海辺の観光地として開発されたような古い街の印象とは全く違っていました。

 

そこで食べてみたいと思いましたが、次の列車に間に合わなくなります。

それどころか、歩くと予想以上に加子浦歴史文化館まであり、泣く泣く途中で駅へと引き返すことにしました。

途中、海を眺められるようにベンチがあり、港のすぐそばとは思えない透き通った海水を眺めながらおにぎりを食べました。

一つ食べ終わった頃、静かに真上をトンビが旋回し始めたのに気づいて、慌てて歩き始めました。

 

 

*日生の由来*

 

「デジタル岡山大百科」という岡山県立図書館によるサイトに、「日生の由来」があります。

中古(奈良時代)、日那志(ひなし)と呼ばれていた頃は、藤野郡(ふじのごおり)(現在の和気町を中心とした地域)新田伊里(にったいり)の庄に属していたが、その後分離して日生村となったという。当時は、今と比べ海水が山際まで深く入り込んでおり、日生全体が大きな湾であったらしい。そして、人家は、山の裾か、少し上がった中腹、また島々の一部にあったと思われる。

そして、「奥の川」上流の深山(みやま)の一本松、即ち、元水道貯水池付近の細道「才の峠」が蕃山や三石へ通ずる唯一の道であったという。その後、この一漁村が次第に発展し、現在の日生となった。

 

 

「当時は、今と比べ海水が山際まで深く入り込んでおり、日生全体が大きな湾であったらしい」

私が歩いた道は、いつごろできたものだったのでしょう。

 

 

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