散歩をする 324 相浦から伊万里へ、西九州線の車窓の風景

2018年に久しぶりに倉敷を訪ねたあと、あちこちの川や海や干拓地を見て歩きたくなりました。

地図を眺めていると、海岸線ギリギリのところに線路が通っている地域が各地にあります。

いつか全国の路線に乗ってみたいと地図を眺めていたのですが、3年前はまだ夢の話でした。

 

佐世保駅はJRの最西端の駅だそうですが、そこから松浦鉄道西九州線がさらに日本列島の最西端を走っています。

西九州線(松浦線)は、吉井以北から東側を伊万里鉄道を始まりとする伊万里線、以南を佐世保軽便鉄道を始まりとする松浦線として建設された。 

 

陶磁器運搬のため、伊万里鉄道により有田ー伊万里間が1898年に開業した。同年中に九州鉄道に合併された後、国有化。伊万里線として順次延伸され、1944年に肥前吉井(現在の吉井)駅まで開業し、松浦線と繋がった。 

「 1987年(昭和62年) 第三セクター鉄道への転換が決定」とあり、80年代初めの頃に佐賀の友人を訪ねた頃は、民営化へと動いていた時代だったようです。

当時は、この最西端を走る鉄道のことは何も知らなかったのでした。

 

地図を眺めていたら、なんとしてもこの鉄道に乗りたいと思い、計画ができました。

 

 

*相浦から伊万里まで2時間20分の旅*

 

相浦駅のホームから相浦港とその向こうに見える東シナ海をみていたら、また方向感覚がおかしくなりました。昔の人は、どうやって大陸とこの九州までを行き来したのでしょうか。

 

伊万里行きの列車が来ました。ここから33駅、2時間20分の車窓の散歩です。

ちょっと困ったことがありました。早朝6時半にホテルを出てから佐世保市内を歩き、そのあと7時半にバスに乗って相浦に着きましたから、ここでトイレに行ってこの2時間20分に備えようと思っていたのですが、なんと駅のトイレが閉鎖していました。

事前に読んだこの鉄道の記事で列車にはトイレがなく、途中、5分ぐらい停車する駅でトイレに行く必要があるということが書かれていた記憶があります。

それはどこだろうと探しているうちに、列車が来ました。

 

相浦駅を出ると一旦山あいに入り棚方駅に止まり、そしてまた川沿いにひらけた風景になりました。工場や佐世保高等技術専門学校がある場所も干拓地のように見えます。小浦駅を過ぎると水田が見えてきました。この辺りの地名には小浦免、沖田免のように「免」がついています。

免の意味を調べると、「江戸時代の年貢の賦課率」(旺文社日本史辞典三訂版)とありますが、江戸時代の新田開発と関係があるのでしょうか。

この辺りはきれいな三角形の山が連なっていました。

 

佐々(さざ)駅に到着しました。なんとここで15分停車だそうです。トイレのことは心配しなくて大丈夫でした。

伊能忠敬宿泊跡があるという説明がありましたが、15分では散策は無理ですね。

 

佐々からは川沿いに、その川の名前を地図で今は確認できないのですが堤防が造られていて、その堤防の上に鳥居が見えました。

どのような水との歴史があるのでしょうか。

左手の川が近づいたり離れたりしながら列車が進み、神田(こうだ)駅のあたりでは駅のそばで炎天下の中、私よりひと世代ぐらい上の方たちが花壇の手入れをしていました。

近くに少し大きなスーパーがあり、けっこう車が止まっていました。地図を見直すと、ここから東側へと別れる支流のそばにも田畑が広がり、その上流に世知原炭鉱資料館があるようです。

この辺りが北松炭田でしょうか。Wikipedia世知原(せちばる)町を読むと、1970年に炭鉱がなくなり、1971年まではその輸送のための国鉄世知原線があったようです。

 

 吉井駅を過ぎると、川底の岩が水流で削れているのが見えました。あの高梁川上流でみた甌穴(おうけつ)に似ています。この辺りからさらに川幅は狭く、渓谷のような場所のそばを列車が通って行きました。

 

しばらく川沿いを走っていましたが、潜竜ヶ滝駅のあたりは分水嶺のようで、次のいのつき駅の手前からまた別の川が北側から流れていました。

潜竜ヶ滝駅」、不思議な名前だとWikipediaを見たら「1962年(昭和37)7月9日 付近の炭鉱のボタ山が集中豪雨により崩壊、構内が土砂で埋まる」と記録されていました。そして「新・日本石炭公団」という全国の炭鉱跡を記録したブログがリンクされていて、ここには住友潜竜炭鉱があったようです。どの分野にも先人の記録があるのですね。

 

いのつき駅」は平仮名表記なのですが、地図では「江迎(えむかえ)町猪調(いのつき)」という住所が書かれています。

その次の高岩駅そばでは「棚田、立派な家々、美しい水路」「山の田川、水量多い、美しい」というメモを残していました。

この山の田川の河口にあるのが江迎鹿町駅で、次のすえたちばな駅の間には「深江潟」「埋立」という住所があり小規模の干拓地が広がり、山には棚田がありました。

 

すえたちばな駅からはまた少し小高い場所に入るのですが、西田平の手前には水田が広がり、白鷺がいました。

遠くに少しだけ平戸大橋が見え、最西端の駅、たびら平戸口駅に到着し、しばらく停車しました。

計画の段階ではここで途中下車したいと思ったのですが、海岸沿いまではちょっとしたハイキングになりそうな高低差があることが現地でわかりました。車窓の散歩で正解でした。

 

このあたりからまた「免」という地名が広がっています。

航空写真に切り替えて見ると、水田が岬の先端まで広がっていて、息をのむような風景です。

 

ここから松浦駅までは海岸沿いの高台からの風景ですが、広い水田地帯や水路が忽然と現れたり、遠くに島が見え浜辺が近くなったり、小さな漁港が見えたり、次々と変わる風景にメモも写真も追いついていきません。そうそう、6月下旬なのにコスモスが咲いている場所もありました。

 

大きな火力発電所が近づいて来て、松浦駅に到着しました。駅周辺で草刈りをしている香りが、列車内にも流れてきました。ここで4分停車し、あと40分ほどで終点の伊万里駅です。

 

松浦駅を出るとじきに大きな水産工場と市場が見えました。アジフライの聖地です。

前浜駅からはまた海岸線が見え、鷹島口駅には「元寇の島」とありました。

今福のあたりではまた棚田が見え、このあたりも「免」がつく地名のようです。

 

福島口駅から湾のような場所になり、対岸が近くに見えます。

楠久駅のあたりでは、田植えをしている水田がありました。西田平では稲が十数cmほどに成長している場所もあったのですが、田植えの時期というのはほんとうにさまざまなのですね。

 

あっという間の2時間20分の列車の旅が終わり、伊万里駅につきました。

次々と変化する落ち着いた街の風景でしたが、帰宅してからその歴史を辿る楽しさがまだ続きます。

 

 

伊万里を訪ねるのは初めてだった*

 

最初の段階では、伊万里に一泊してあちこちを見ようという計画もありました。

地図を眺めていたら伊万里駅の手前に「八谷搦(はちやがらみ)」という干拓地らしき場所をを見つけましたが、花宗水門の説明板で「搦」の意味を知ることができました。

 

焼き物の街の伊万里だけでなくこの八谷搦や資料館を訪ねてみたいと思いましたが、今回は時間が足りずに通過するだけになりました。

12分後に出発するJR筑肥線に乗り換えです。

 

さて、伊万里駅に到着した時に、何か風景の記憶が蘇るだろうかということを楽しみにしていました。

今も毎日使っているお皿を買うために、友人のお父様が伊万里へ連れて行ってくださったような記憶がありました。

 

車窓からも駅周辺に降り立ってからも、私にとっては初めての風景でした。

 

あのお皿を購入したのはどこだったのでしょうか。記憶はほんと、曖昧ですね。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら