小雨の降るなか倉敷駅に入ると、7時42分発の伯備線新見行きが3分遅れの放送がありました。
通勤通学の時間帯で、ホームには人が溢れるように並び始めました。
次の清音駅での井原鉄道に乗り換え時間は11分ですが、ICカードが使えない区間なので切符を購入する時間が必要です。3分遅れで大丈夫かなとちょっと焦りながら清音駅で下車し、井原線のホームに着くと井原線も5分遅れでした。
井原線が出発すると大きく右へと曲がりながら、高梁川を渡ります。
その向こうの小田川との合流部の堤防壁に、「小田川付け替え 5年完成」と大きくペンキで書かれているのが見えました。
「小田川の付け替え」どんな工事なのでしょうか、現代もまだまだ川の付け替えが必要ですね。
通学の時間帯で混んでいたので、車両の一番後ろの窓から風景を眺めました。特等席ですけれどね。
高梁川と小田川の合流部が見えました。堤防が嵩上げされ、その中に水田と公園がありました。
一面浸水した映像でよく耳にした吉備真備のあたりでは、嵩上げした新しい家と以前からの家が見えました。
堤防が倍の高さに嵩上げされている箇所もありました。
しばらくすると、それほど高くない堤防に遊歩道が整備された美しい場所が見えます。
川沿いは水田地帯が続き、今年の田植えに向けて整備され始めていました。
しだいに両側の山が近くなり、列車は小田川沿いを走ります。
時々ハッとするような美しい昔からの家並みが見えました。黒い瓦が多いようです。
戦時中に小学生だった母が小田川沿いに木を切りに行ったというのは、どのあたりだったのでしょう。
切り通しとトンネルを越えると、白っぽい壁と黒い瓦の家が増えてきて矢掛に到着しました。
結構な嵩上げしてある古い家々と低い位置に水田がある風景でした。
早雲の里荏原駅の先で小田川を越えると、ここで小田川は北西の山の方へと遠ざかりました。
井原駅では、乗客がいつの間にか私だけになりました。
井原駅の少し先から、地図では小さな流れがいくつかまとまりながら福山上水の水源である芦田川へと合流して行きますから、小田川と広島県側の芦田川の分水嶺に見える場所ですが、江戸時代に瀬替えをしたという話を思い出しました。
現在のWikipediaの小田川の歴史では以下のように説明されていました。
古くは、井原市の井原市街南端で東西に分流、山裾を西流して芦田川にも流れ込んでいたと考えられる。井原市街の地形は扇状地となっており、何かの理由で西への流れだけが遮られたという説や河川争奪が生じたという説のほか、江戸時代において備後福山の初代藩主だった水野勝成が、備後福山城下を洪水から守るために瀬替えを行わせ、現在の流路が出来上がったという説に至っては相当な土木工事であったはずなのに、そのことを記した文献が残っていないという何がある。
いずれにしても、この井原のあたりで小田川は流れを変えていたようですね。
いずえ駅のあたりからの小さな流れが高屋川になり、広々とした水田地帯が広がり始めました。
真っ黒な瓦の地域から、少し灰色が混ざった瓦の街並みへと変化して行きました。
9時すぎに神辺駅に到着して、念願だった井原鉄道の車窓の散歩が終わりました。
「散歩をする」まとめはこちら。