水のあれこれ 55 <人工の川>

案外早く、先日の新左近川が荒川に対して垂直の方向に流れている理由を見つけることができました。


現在、東京都立中央図書館で開催中の「東京凹凸地形ー地形からみた東京の今昔ー」で展示されていた本で見つけました。


「水路をゆく 東京の川・運河を巡り尽くす!!」(イカロス出版、2011年1月)の「荒川」の中に書かれていました。

荒川河口に近く、東岸にある新左近川は、旧江戸川の派川である。埋め立てによって延長された部分。漁港とプレジャーボート基地、親水公園として利用されている。


確かに、西側の荒川の河口に接しているところにプレジャーボート用の施設がありました。
ということは、川の流れは旧江戸川から荒川方向なので、東から西へと流れていることになりますね。
私には西から東へ流れているように見えたのですが、勘違いだったようです。
本当に、人間の観察認識というのは頼りないものです。


さて、その本の「荒川」の説明に、「自然あふれる川は人工だった」と書かれていて、20年ほど前に治水工事すべてを無駄で自然を破壊する公共事業ととらえて感情的に反発していた頃に、荒川が人工河川であったことを本で読んで驚いたことを思い出したのでした。


荒川放水路



Wikipedia荒川に、「岩渕水門から、江東区江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川」を荒川放水路と呼ぶことが書かれています。


地図が好きでよく眺めていた20代の頃から、なんで江東区江戸川区、あるいは足立区のあたりはこんなに複雑に川が流れているのだろう、中州が発達したのかなぐらいにしか気にしていませんでした。
利根川東遷事業」については、日本史で聞いたような記憶もあるのですが、高校生の頃には、川や海、あるいは歴史にはほとんど関心がありませんでした。


当時は、ネットで簡単に知識や答えが見つかる時代ではなかったので、荒川がなぜ荒川と呼ばれるようになったのかを「100年に一度の洪水」という言葉と共に1990年代に初めて知ったのでした。


「計画に至る過程」では以下のように書かれています。

明治43年(1910年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2.769戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬邑楽(おうら)郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断、死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸におよぶ甚大な被害を引き起こした。また、利根川多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌明治44年(1911年)政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川多摩川に優先し荒川放水路の建設を決定する。


今からわずか1世紀前のあの辺りはまだ、「利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた」状況だったとは信じられない現在の姿です。


1924年大正13年)の岩渕水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以降東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流露が完成することとなる。

荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に荒川の本流とされ、それに伴い岩渕水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となった。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。

ぶらりと川辺を散歩しただけで、今まで知らなかったことがつながって行くことが面白いですね。
もしかしたら、こうして時を行き来して考えることが高年から老年期の発達課題なのかもしれません。





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