広島から呉線で三原に到着するのが14時42分でしたから、この日はまだまだ時間に余裕があります。2月下旬ともなると17時半ごろまでまだ明るいので、計画の段階でもいくつか候補がありました。
尾道を歩くのもいいし、三原も駅前に三原城址があって堀と思われる水色の部分が地図に描かれています。福山はあの塩町からの福塩線が通っていて、周辺には複雑な水路や川の流れがあって興味が湧きます。
どこに立ち寄ろうかと悩んでいた時に、福山の隣町の笠岡市に目がいきました。
「神島」という地名があり、その内陸部には干拓地のように水路が張り巡らされています。
検索したところ、笠岡湾干拓地だということを知りました。
岡山の干拓地は広いですね。
ここを訪ねることにしました。
*コミュニテイバスで干拓地を回る*
地図で見ると、干拓地らしき区域内にはほとんど人家もありません。どうやったらここに行けるのだろうと探していたら、干拓地の外側を走り、神島の瀬戸内海側にある街をつないでいるコミュニテイバスがあることがわかりました。
ちょうど1時間ほどで、ぐるりと駅まで一周できそうです。
バスに乗ると、山側にあるわずかの平地からぐるぐると市内を走り、少し小高い場所へ向かった後、橋を渡って干拓地へと入りました。
おそらく神島だった頃の海岸沿いの街と思われる民家の多いあたりを抜けると、右手に広々とした畑地が広がっています。少し離れたところに、福山市の工業地帯が見えます。
しばらくいくと排水機場があり、バスは山道を登り始めて、神島の瀬戸内海側へと出ました。
たくさんの島が見え、静かな漁村のような風景です。
バスは私だけになることもなく、時々住民らしき人たちが乗り降りしていました。
また橋を渡って、駅へと戻りました。
*笠岡湾干拓地*
Wikipediaの笠岡湾干拓地を読むと、市街地の平地部分は「国営事業として昭和22年から開始された同市市街地西方の現在番町と呼ばれる」もので、橋を渡ったところに広がっていたのは「昭和41年より開始された本土から神島にわたるもの」が笠岡湾干拓地と呼ばれているようです。
笠岡市の概要を読むと、この辺りも江戸時代から干拓が行われていたようです。
市域には丘陵地が多く平坦な土地が少ないため、農地を確保するために古くは江戸時代より備後福山藩などによって古浜・大島地区など大規模な干拓が行われる。戦後、市の南東部(富岡湾干拓)や南西部(笠岡湾干拓)も行われる。特に国営事業として1966年から岡山県と日本鋼管福山製鉄所(現、JFEスチール福山地区)によって行われた笠岡湾干拓地事業では笠岡諸島の一番本土よりであった神島までの笠岡湾を大規模に干拓し1989年に完成した。
1989年に完成したとありますが、当時は干拓地に関心もなかったので全く記憶にないのが残念です。
笠岡湾干拓地は広大な平地であるが減反政策により水田が作られなかった。また完成後には土壌の塩類化が発生したため塩類耐性の比較的高い蔬菜類や牧草の栽培が多い。近年では広大な平地を利用し植物工場など高度な技術を用いた先進的な農業生産が行われる。
行く前に地図で見ていた時に、干拓地のそばに通常ある大きな河川が笠岡には全くないことに気づきませんでした。
市内の河川は吉田川系を除きいずれも平均流水位が0.2m~0.3m、川幅も5m内外であって、降雨時以外はほとんど流水のない矮小なもので水不足に悩まされた歴史を持ち水源確保のための溜池が多く作られた。
水の少ない場所に干拓地をどうして計画したのか、「笠岡湾干拓地」の概要に書かれていました。
なお用水に関しては、沿線各市町村の工業用水・水道用水と合わせて、同水源となっている 高梁川から延長24kmの導水路を建設して確保された。
なんと倉敷周辺の東西用水だけでなく、この笠岡まであの高梁川の水が送られていたとは。
瀬戸内海沿岸の干拓地といっても、歴史はそれぞれですね。
地図で見つけてふらりと立ち寄った笠岡市ですが、ここもまた落ち着いた街の印象でした。いつかは笠岡諸島を巡ってみたいものです。
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