散歩をする 369 大野川の輪中を訪ねる

遠いと思っていた九州も、朝一番ののぞみに乗れば10時29分には小倉に到着します。

ぜひ国東半島を訪ねて干拓地を見てみたい、そして国東半島の海岸線沿いにぐるりと一周してみたいと思いましたが、公共交通機関だけでは無理そうです。

翌日は朝早く熊本へ向かうので、はじめての大分県、どこを歩こうかと地図をずっと眺めていました。

 

今までは漠然としか大分県の地理が思い浮かばなかったのですが、由布岳の方からの大分川と阿蘇山の方からの大野川という大きな二つの川が別府湾に流れ込んでいることがわかりました。

このどちらかの川辺を歩こうと眺めているうちに、南側から流れてきた大野川が東へ向きを変えたあたりから細い水路のような水色の線がしばらく大野川に並行して流れ、途中から「乙津川」になっているのに目がとまりました。

さらに乙津川と大野川が離れたり近づいたりしながら流れて、途中ぐいっとくびれて二つの川がわずか50mほどに近づいている場所が目に入りました。

 

まるで信濃川と中ノ口川にはさまれた燕三条駅のあたりのようです。

その二つの川に挟まれて長細く続く場所を歩き、そこから大野川と乙津川を両側にみてみたい。

計画が出来ました。

 

初めて大野川を知りましたが、その説明を読むと私が気になったあたりに輪中があることが書かれていました。

検索するといくつかこのあたりの輪中について見つけましたが、地図と照らし合わせても土地勘がないとどの辺りかよくわかりません。

とりあえず、そのくびれた場所を歩ければいいかと訪ねました。

 

 

鶴崎駅から乙津川と大野川の堤防を歩く*

 

大分駅から12時28分発JR日豊本線佐伯行きの列車に乗り、大分川を越えて12時37分に鶴崎駅で下車しました。

駅の前に案内板がありました。

鶴崎地区

 鶴崎は、大野川・乙津川に接する地域で、九州第4位の長さ(107km)の大野川によって形成された沖積地で、津留の先に当たることから鶴崎の地名がつけられました。台地には、旧石器・縄文・弥生・古墳時代の多くの遺跡があります。中世は、高田荘と呼ばれた荘園の地域で、戦国時代には鶴崎城も造られました。江戸時代には、肥後・岡・臼杵延岡藩天領と五分割され、特に、鶴崎肥後藩、三佐は岡藩の参勤交代時の船出・船入の玄関口として栄え、鶴崎には鶴崎茶屋が置かれ、肥後藩の豊後支庁の役目を担いました。

 昭和29年に鶴崎町・明治村・高田村・川添村、松岡村が合併し「鶴崎市」となり、昭和38年に大分市に合併しました。昭和39年に国から新産業都市指定され、大企業の進出で臨海工業地帯になり、その後背地として今も発展しています。

 

「津留の先」とは、細い水路が途中から乙津川になるあたりの地名に「大津留」とあるのでそのことでしょうか。

津留は「つる」かと思ったら、「つどめ」という読み方と意味があることを初めて知りました。

中世・近世、領主が領内外における特定物質の移出入を禁止または制限したこと。港で行われたのでこのながある。

コトバンク

 

地図で見つけた川から下車してみた場所でしたが、地名一つとっても奥が深いですね。

 

7月中旬、快晴のお天気の中、駅からまっすぐ南へと乙津川へ向かいました。

堤防の上の道にのぼると遠くの山並みまでみえ、ゆったりと蛇行した乙津川と緑の堤防が美しい場所でした。河口の方を見ると、沿岸部の工場が見えました。

日傘をさしていても真夏の太陽が暑いのですが、草の良い香りと川風とこれもまた夏の楽しさですね。

左手に大きなお寺があり、堤防はその二階と同じ高さでした。

 

1kmほど歩くと、いよいよあの二つの川がぐんと近づいた場所になりました。地図を見ると二つの川の間を尾根のように小高い場所があるイメージでしたが、想像と違って堤防と堤防の間の谷底のような場所に道があるので、川は全く見えなくなりました。

今度は大野川の堤防にのぼりました。

乙津川よりも川幅が広く、こちらもゆったりと美しい川の風景です。

 

上流へ向かって数百メートルほど歩き、堤防を降りて住宅地へと向かいました。

 

*高田輪中を歩く*

 

堤防の下から畑と水田があり、舗装された道の真ん中にコンクリートの蓋がされた細い水路が通っています。

この「道の真ん中に暗渠がある」ことに惹かれるように進んでいくと、石を積んで嵩上げされている住宅地になりました。

数十センチから1m近い場所もあるでしょうか。

大きな石を積んでいる家もあれば小さな石をたくさん積んでいる家もあり、石の組み方もいろいろのように見えました。

 

なんとなく勘で進んだ先が輪中だったようです。

私が歩いたのは「堂園」「関園」でしたが、大分市の「高田輪中のまちなみ」(「平成24年度おおいた景観モデル賞」)の説明をみると、中洲のような場所全体に輪中の跡があるようです。

 大野川と乙津川に囲まれた高田地区は、かつて洪水常襲地域でした。そのため先人たちは、堤防を築き、高い石積みの基礎の上に住宅を建て、さらには水防共同体として地域の連携意識を育てるなど、特徴的な文化の佇む集落を形成しています。

 

昔ながらの嵩上げした家とそうでない家と混在している印象でした。水路沿いには水田も残っています。

バス停に向かう途中、古い家の前に「水害痕跡表示家屋」と表示がありました。

 

地図で見つけた場所を歩くことができて満足して大分駅行きのバスを待っていると、バス停の前の住宅地も大野川の堤防に向かって石積みの家が続いていました。

 

 

*おまけ*

 

こうして思い出しながら書いていると、大野川や乙津川に沿って「南へ歩いた」はずなのに、なぜか西へ向かって歩いたような気がしてくるのです。

方向感覚がおかしくなるのはなぜでしょうか。

 

 

 

 

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