落ち着いた街 23 記念碑があちこちにありゆったりした大分市

地図で見つけた高田輪中の地域を歩き、高田小学校前から大分市内へはバスで戻りました。

真夏の日差しの中汗だくで歩いたので、バスの冷房で生き返りました。最初は乗客は私一人でした。バス通りの道でも、輪中で見たような石積みの家が少し高い住宅が残っていました。

そのうち下りになり小さな川を越えるとぐいぐいと上り明野緑地という公園のそばを通ると、また下り、そして切り通しに入りました。なんとも複雑な地形でした。

不思議だったのは切通しの道ではあるのですが、両側が低い尾根のような場所でした。

 

鶴崎駅までのJR日豊線の沿線は平地だったのですが、バスは起伏の激しい場所をこえ、大分川の鉄橋を渡ると大分市内の中心部に入りました。

まだ15時すぎですから、せっかく初めて訪ねる大分市内を歩くことにしました。

 

県庁前バス停で下車するとすぐ目の前が府内城です。この城の水がどこから来たのかみてみたいと思っていましたが、目の前のお堀の大きさをみただけで水路をたどって歩くのは無謀な計画であったことを悟りました。

地図で見るときと、目の前のお城とでは大きさが違いますね。

 

お城の案内板に昔の地図が描かれていて、それによるとこの辺りが大分川の河口で、府内城本丸は海に接していたようです。

現在の地図では府内城の東側に水路があるのですが、途中から暗渠になっています。府内城の水はどこから来たのでしょうか。

 

 

聖フランシスコ・ザビエル像*

 

バス停を降りた時にその一角に銅像が立っていたのが目に入ったのですが、府内城の方に気を取られていました。

誰だったのだろうと気になり、戻ってみると聖フランシスコ・ザビエルでした。

 日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコザビエルは、東洋宣教の途次1549年(天文18年)日本に渡来した。

 その後鹿児島、平戸、山口で布教し1551年(天文20年)9月大友宗麟の招きにより大分に来て布教した。かくしてこの地は日本における宣教の中心地となり、西洋文化が目覚ましく開花した。

 少年たちはビオラを弾き、讃美歌をうたった。これは日本で唱歌を歌った最初である。またクリスマスにはこれも日本最初の西洋劇が演ぜられた。更に日本で初めての洋式病院さえあった。その他初等学校、問答学校、通訳学校、伝道士学校、コレヂオもあった。

 実に大分こそは当時西洋文化の花園であった。

 今聖師の像を建つるに当たって、その昔をしのびこの一文を草する。

1969年12月3日 聖フランシスコ・ザビエルの祝日 

 大分県キリシタン史蹟顕彰会 上田 保

 

中学生のまだ記憶力が良い頃に習った名前や事柄が書かれていました。

 

16世紀半ばに少年たちがビオラを弾き讃美歌を歌いクリスマスが祝われた。そして幕末に最初の本格的な西洋式病院ができたよりもさらに300年ほど前に大分にできた洋式病院は、どんなものだったのでしょう。

わずか10行ほどのこの行間をもっと知りたいものです。

 

そしてこの像を建てた1969年の時代の雰囲気はどんなものだったのでしょうか。

 

 

*電信電話発祥記念碑*

 

府内城と大手町の間を通る国道197号線は6車線の広い道路で、ふだんはこういう自動車のための道路は歩くのに疲労感があるのですが、大きなビルとビルには間があり街路樹も美しいのでゆったりした通りに感じました。そして案内板やこうした記念碑があるのでつられて歩きました。

 

ビルの片隅にもう一つ石碑がありました。

「電信電話発祥記念碑」で、電信柱に登って作業をされる方とそれを見上げている街の人、そして交換手の女性が彫られていました。

 

 西暦一八七七年(明治十年)十月二十日大分市荷揚町一二五番地で最初の電報が取扱われ、その後、西暦一九〇九年(明治四十二年)三月一日には電話の交換事務が開始された。これが大分県における電信電話の創まりである。

 創業当時約七十加入であった電話は、今日では四十万を突破するまでに発展した。これは県民各位の絶大なるご支援と諸先輩全職員の不断の努力によるものである。ここに深甚なる感謝の意を捧げるとともに、今後の電信電話事業の一層の発展を願い、この碑を建立する。

 西暦一九八一年(昭和五六)年吉日

日本電信電話公社」「全国電気通信労働組合」による記念碑のようです。

 

1981年ごろというと電話をかけるのに近所の家に借りに行った時代から、一家に一台の固定電話や街中に公衆電話が当たり前になった時代でした。

まさかその十数年後には携帯電話やインターネットの時代になるとは想像もしていませんでしたね。

さらに携帯電話やスマホが当たり前になって公衆電話のかけ方がわからない人も増えたという時代ですから、この石碑に彫られている情景も説明が必要かもしれませんね。

 

それにしても「いつ、どこで、どのように始まったか。それは何件だったか」といった記録は、後世でのどから手が出るほど欲しい記録ですね。

 

 

鶴崎駅でも高田輪中でもあちこちにこうした説明や記念碑があり、落ち着いた街だなと感じながら大分駅へと歩きました。

歴史を行ったり来たりできました。

 

 

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