行間を読む 165 「お国一の貧地」から「飽田」へ

熊本県「やつしろ干拓の歴史~わが田は緑なり〜」に、「干拓の父 「鹿子木(かなこぎ)量平・謙之助親子」」として以下のように書かれています。

当時、「お国一の貧地」といわれた野津手永の惣庄屋となった量平は、人々の生活を豊かにするために、百町新地(文化2年)、四百町新地(文政2年)、七百町新地(文政4年)の干拓による新田開発を行いました。量平・謙之助親子の墓の脇には量平を神様として祀った文政神社がつくられました。

 

熊本県観光サイト「もっと、もーっと!くまもっと。」の「くまもとの干拓の歴史」には、「干拓の祖 鹿子木量平」としてもう少し詳しい話がありました。

鹿子木量平は、宝暦3年(1753)飽田郡鹿子木村(北部町)に生まれました。熊本古城を築き歌人としても有名な鹿子木寂心(親員)を祖先に持つ名門の出である量平は、安永2年(1773)父のあとを継いで21才で村の庄屋となりました。庄屋時代は天明の大飢饉天明3年1783)のとき村民を飢えや寒さから救い、寛政4年(1792)の雲仙岳地震で崩れて、肥後海岸に大津波が押し寄せて多くの死者が出たとき、民衆の救済に力を尽くして藩から表彰を受けました。寛政9年には民政の才能を認められて杉島手永(富合町、城南町)などの惣庄屋に任命されて活躍の場を広げ文化元年(1804)には野津手永(竜北町、鏡町など)の惣庄屋に転任となりました。

野津手永は、当時条件が悪く貧しいと言われた所であったので、量平は財政を立て直して農民に働く場を与えるために手永の海岸に干拓新田(新地)を築くことにし、文化2年に先ず百町新地の築造に成功、その収穫から毎年三百三十石を郷備米として蓄えることにしました。のち2回他の手永に転勤して益々民政に努力し、何回も藩の表彰を受けましたが、文化14年再び野津手永の惣庄屋となり、藩が計画した八代郡大牟田沖新地の築造に着手して、新田三百三十町歩(千丁町古閑出)を文政2年(1819)に完成しました。その広さから四百町新田と呼ばれ毎年多くの年貢米が納入されるようになりました。

この成功に気をよくした藩ではさらに宇土、下益城、八代三郡にわたって二千六百町歩におよぶ大干拓新地造成計画を立てて、量平を責任者に任命しました。量平は第一段階として百町新地と四百町新地の前面に七百町新地を文政4年(1821)に完成せしめました。これは肥後藩最大の新田であるが全国的にみても大規模なものでここから毎年二千四百石余、塩千六百石余の年貢が納入されるようになりました。

鹿子木量平は天保12年(1841)に89歳で没しましたが、墓には百町、四百町、七百町の三新地に彼を祀る文政神社があります。「藤公遺業記」は藩命によって彼が著したものですが、自分の事業の成功も神恩によると記しています。

 

土地勘が全くないのですが、どうやら今回バスを逃してしまったあの竜北歴史資料館のあたりから、行ってみたかった樋門などが多く残っている沿岸部のあたりのようです。

 

「飽田郡」は1879年(明治12)に行政区画として発足した地名のようで、現在の熊本市のあたりでしょうか。

飽食で馴染みの「飽」という字ですが、「腹いっぱいになるまで食べあきる、物が十分に足りる」(Macの辞書)の意味があるようです。

 

「お国一の貧地」だった地域に、半世紀後には「飽」「田」の地名がつくほどの夢が叶ったのでしょうか。

 

神社が建てられたのは、人の命に対して追いきれないほどの責任と葛藤で働いたことに対しての人々からの信頼の意味だったのだろうかと想像しました。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら