3年ほど前でしょうか、地図で八代が干拓地らしいことを見つけました。航空写真に切り替えて八代市の沿岸部を見ると想像以上に広大で、どこをどう歩いたら良いのか全く見当もつきません。
「氷川町」を見つけました。
何か斐伊川と関係があるのだろうかと地図を眺めると、水田地帯にポツンと竜北歴史資料館があることに気づきました。
その前の道が県道14号線で、どうやら数少ない干拓地内を結ぶバス通りのようです。
資料館にも立ち寄ってみれば八代の干拓の歴史を学ぶことができるかもしれない。そんな計画がありました。
それで今回、松橋産交バス営業所からこの水田地帯のど真ん中を走るバスに乗る計画を立てていました。
ただ、雨がひどくなりそうだったので、資料館を訪ねるのはあきらめました。
*山側のバス路線から八代の干拓地帯を眺める*
県道14号線はちょうど海側を通る九州新幹線と山側の鹿児島本線の間を通っています。
そこを走るのが「八代ー松橋線」で、八代行きはもうひとつ、山側を走る「八代ー松橋線(宮原経由)」があるようです。
間違えないようにと何度も時刻表とバス乗り場を確認して、15時20分にバスが来ました。
ところがバス側面の行き先表示が何か違います。違う路線だと思って乗らずにいたら、後ろの表示は目的の路線名になっていました。
あ〜あ。干拓地のど真ん中を通過する夢が終わりました。
初めて訪ねる場所では、バスに乗るのも大変です。
西側の黒い雲が近づいて、ザーザー降りになりました。
次の山側を通るバスは40分後です。営業所の待合室で、地面を叩きつけるような雨を眺めて待ちました。
時間があれば、松橋付近の川合や大塚古墳とその前にある「新堤」という池のような場所も見てみたいと思っていましたが、とてもとても歩けるような雨ではありません。
まあ、きっと何かいいこともあると気持ちを切り替えるしかないですね。
「八代ー松橋(宮原経由)」に乗る頃には、また雨が止みました。
バスは営業所を出ると少し高台へと上って行き、左手は山が近づくような国道3号線に入りました。干拓地が眼下に見え、予想以上に干拓地を見晴らすことができる路線でした。
途中にある熊本南病院はさらに高い場所に立っています。
少しずつ下っていくと、水路のそばにお社が祀ってあるのが見えました。
両側が水田地帯になり、水路や排水路が縦横無尽に通っています。
手前に鹿児島本線、遠くの方に九州新幹線の高架橋が見えました。ただただ平坦な風景です。
一軒家バス停を過ぎるとイオンモールが山側にあり、砂川を越えると氷川町に入りました。
「氷川町物産館」の表示があり、何か記念碑がありました。開墾記念でしょうか。
また左手はぐっと山が近づき、右手には干拓地の風景が続き、稲が10センチぐらいに育った水田とところどころかぼすでしょうか、果樹園やビニールハウスがあります。
魚の鴟尾のある灰色や黒の屋根の、落ち着いた家並みが水田地帯に点在しています。
宮原(みやのはら)バス停の手前で濁流の川を渡りました。これが氷川で、2005年に「八代郡竜北町と宮原町が合併した際、町名はこの川が町域を流れていることから氷川町になった」と書かれていました。
大雨と帰宅時間が重なったためでしょうか、国道3号線は車が連なっていてゆっくりで、キョロキョロと車窓の風景を確認するにはちょうど良い速度でした。
16時半だというのに日没前のような暗さで、西からはまた真っ黒な雨雲が近づいたと思うと土砂降りの雨です。
広大な水田地帯なので、雨が降っていない場所も遠くに見えました。
宮地バス停の手前で水路を渡ると八代神社があり、そこからまた3本水路を超えました。
そして「水無川」とその親水公園を過ぎるとその向こうに少しだけ球磨川が見えました。
このあたりが計画の段階で訪ねてみたかった球磨川右岸の水路部分です。
取水堰からの2本の水路が何本にも分岐し、その上を水無川が交差し、3本の水路が八代の干拓地方面へと伸びています。
歩きたかったけれど訪ねるのをあきらめた場所で、バスを逃したことでその上を通過できたのでした。
いいことがありました。
*八代城を歩く*
八代駅前には大きな工場があり、交差点にくまモンが立っているのが見えました。
さっきまでの真っ黒が雨雲が去り、ポツポツ程度の雨になっていました。
今日は雨のため、まだ7000歩も歩いていません。市役所駅前で下車して八代城内に入ってみました。
お城は八代駅からも離れていて、そのあたりの球磨川の河口は前川と別れてその間に島があります。
不思議な場所にあるお城をこの目で確認したいと思いました。
目の前に大きな市役所とホテルのような熊本病院があり、住宅地にこじんまりと残っている八代城とその地形の関係は、ちょっと歩いただけではわかりませんでした。
現在、八代市の西側は平地が広がっているが、築城時には干拓前で、不知火海の海岸線ももっと近くにあり、一面干潟であった。日置川(現:水無川)が北の境で外郭の一助になっているが、北西・西方面には特に防御構築物はない。南側は萩原堤と前川が備えとなっているが、北側と東側の外郭には外堀があるだけで、ほとんどの箇所は土塁しかなかった。
干潟に面した海城だったのでしょうか。
翌日はその前川から球磨川にかけて中洲を歩く予定です。
八代城からホテルへの道の途中に、また別のくまモンがいました。
これからまだ線状降水帯の雨が来そうですが、なんだか安心感を感じる存在でした。
「散歩をする」まとめはこちら。
「城と水」の記事のまとめはこちら。