今回、関西本線に乗ってみようと思ったのはチケットを一筆書きにするというこだわりもあったのですが、もう一つ別の理由もありました。
地図を眺めていると、JR亀山駅から鈴鹿山脈を越えるとそこから滋賀県にも京都府にも行けるし、さらに近鉄線を利用すれば奈良県桜井にも行けます。
いつもの名古屋から岐阜、滋賀県を通って京都・奈良方面というルート以外にこんなにも道があるのだと不思議な気持ちになる区間でした。
ところが、地図をたどると名古屋から亀山駅までは「関西本線」と表示されているのに、亀山駅から柘植駅、伊賀上野駅、木津までは「関西線」になっていて、ここで混乱していました。
Wikipediaの関西本線を読むと、「愛知県名古屋市中村区の名古屋駅から亀山駅、奈良駅を経て大阪府大阪市浪速区のJR難波駅に至る」と書かれてはいるのですが、そのすぐ下に「関西線(名古屋地区)(名古屋ー亀山駅間)」「大和路線(加茂駅ーJR難波駅間)」とも書かれていて、関西本線と関西線が地図とは異なっていてまたまた混乱します。
また関西線柘植駅からは滋賀方面へと草津線がありますが、2年前に草津線水口駅に降りた時にかつて東海道水口宿があったことを知りました。「東海道も桑名あたりまでは思い浮かべられるが、そこから京都までの道を知らなさすぎた」ので、土地勘がないだけでなく私の中の「東海道」の認識がまたこの辺りの路線図を覚えるのに混乱する理由かもしれません。
私が思い浮かべる「東海道」は現在の東海道本線か東海道新幹線のルートで、江戸時代の東海道五十三次とはどうもずれてしまうようです。
「道(みち)としての東海道」を読むと、律令時代に設けられた時点では、「畿内から常陸国国府へ至り、常陸国からは、陸奥国(東山道)への連絡道が設けられ、より北へ向かうことができた」とあるので、江戸時代の東海道五十三次とも違うものだったのですね。
東海道は、当初は東山道に比べると必ずしも通行は容易ではなかった。これは、多数の大河川の下流(揖斐川・長良川・木曽川・天竜川・大井川・安倍川・富士川・相模川・多摩川・利根川・太日川など)および東京湾・香取海を渡って上総国へ向かった(武蔵国は東海道に属さなかったため同国を経由しなかった)。
10世紀以降に、渡河の仕組みが整備され、東海道が活発になったと考えられている。
香取海だった時代、そして江戸幕府による利根川東遷事業よりも前の時代は上記の川もほとんどがおそらく河道も定まらない暴れ川で、道ひとつ定めることがどんなに大変だったことでしょうか。
現代の「東海道」は新幹線で2時間で京都に到着することは、ほんとすごいですねえ。
ということで、三重県のあたりで私の中の路線図がもやもやになるのは、その行間にあまりにも長い道の歴史がありすぎて混乱しているのではないかと思っています。
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