散歩をする 107 香取海を見る

暮れも押し詰まった頃に利根川河口を見に行きましたが、案外、銚子まで近いとわかりました。

そして、1月半ば、再び日の出前に家を出て電車に乗ったのでした。

 

今回の目的地は香取海です。

以前から地図を眺めては、霞ヶ浦あたりの湖がたくさんある場所にいつか行ってみたいと思っていました。当時はまだ、ただ「そこに水があれば飛び込みたくなる」気性ゆえでしたが、関東平野昔、海底だったことを知ってからその痕跡をみてみたいと思うようになりました。 

 

印旛沼から鹿島神宮へ*

前回のリベンジということで、まずは北総線印旛沼の上を通過して、成田空港で乗り換えて成田駅へ着きました。成田線の乗り継ぎまで時間があったので駅周辺を歩きましたが、想像以上に坂道が多くかろうじて駅のあたりが小さな台地の印象です。これもまた、元は海によってできた地形なのでしょうか。

 

佐貫駅鹿島線に乗り換えて、いよいよあの地図で複雑に水色の部分が描かれた地域を通過します。

利根川を渡ると、まず、与田浦を越えて十二橋駅を通過し、常総利根川を渡ります。

この辺りは見渡す限り平野で、干拓地として発展してきたのだろうと思われる風景です。

少し丘陵が近づいてきて起伏のある地形に入ったところに、潮来駅がありました。「潮来」と聞くと潮来の伊太郎という歌のさわりだけが思い浮かぶのですが、海辺の街だとずっと思い込んでいました。

 

またその丘陵地を抜けると北浦を渡り、鹿島神宮駅に到着しました。

鹿島神宮あたりは海岸部の平地を勝手に想像していたので、目の前に急な坂道があり駅周辺は小高い地形に囲まれていることにちょっとびっくりしました。

これも、また元々は海岸の岸壁の痕跡なのでしょうか。

 

*大洗線に乗って水戸へ*

せっかくなので、まだ行ったことのない水戸まで行ってみようと、鹿島駅から大洗鹿島線に乗りました。

大洗というとなんとなく海岸の平坦なイメージでしたが、大洗線はところどころで小高い場所を切り開いたようなところを走る線路でした。右手に海があるのですが、少し距離があるようで残念ながら見えませんでした。

風景は房総の干潟付近に似ているのですが、見渡す限り乾燥した畑が続いていました。川や用水路らしきものはほとんどない風景です。

再び、北浦の北部沿岸に近づいたあたりで、水田や川が現れ、またしばらく乾燥した畑や林が続きます。

 

大洗の手前で涸沼(ひぬま)が左手に見え、冬のまっ青な空が水に映えていました。乾燥した風景が続いた後だけに、その青さが印象的でした。

しばらくすると涸沼から流れ出る涸沼川を渡りましたが、水量も多く、清流でした。

この下流那珂川に合流して、太平洋へと流れるようです。

 

水戸に到着し、千波湖の遊歩道を歩いてから偕楽園へ。残念ながら梅の時期にはまだ早く数本にちらっと咲いているだけでしたが、Wikipedia水戸市の説明に「那珂川周辺部は低地だがそれ以外は概ね台地である」を実感する市内の高低差を堪能して歩きました。

 

ここまで読むと、ほとんど電車に乗っているだけの楽チンな旅かと思われるでしょうが、途中の成田駅周辺、鹿島神宮駅周辺を少し歩いただけでも、けっこう足にきていましたから、偕楽園から水戸駅に戻るのはバスを利用しました。

 

*水海道を通って帰路へ*

帰路をどうするか計画の段階であれこれ考えたのですが、欲張って以前から気になっていた水海道を通ることにしました。

この地名を知ったのは30年ほど前で、地図でみると内陸部なのになんで「水」「海」なのかということが気になったのでした。そして「みつかいどう」と読むことも。

 

再び、その地名を意識したのが、平成27年9月9日から10日にかけてでした。

その夜、私は夜勤中でしたが、屋根を激しく打ち続ける雨が何時間も続き、万が一に備えてNHKをつけながら勤務していました。線状降雨帯という言葉を初めて知りました。

私の地域は雨が落ち着いて来ましたが、常総の水海道あたりにずっとその線状降雨帯がかかっていたのでした。

 

ということで水戸駅から下館まで行き、そこから常総線に乗って水海道を通過してみようと思いたちました。

水田や用水路の広がる風景が続き、しだいに右手に鬼怒川の堤防が見てきました。その辺りで、残念ながら日没の時間になってしまいましたが、しばらくすると今度は左手に小貝川が近いことが感じられました。

大きな川に挟まれた地域ですが、最初にリンクした「香取海」の「1926年時点の関東平野の地図に縄文海進領域(斜線部)を重ねた図」をみると、斜線部にかかっているように見えます。

香取海(かとりうみ)は、古代の関東平野東部に湾入し香取神宮の目前に広がっていた内海を指す。江戸時代まで下総・常陸国境に存在し、鬼怒川(および小貝川・常陸川)が注いだ。

 

この香取海が急激な変貌を遂げたのは、江戸時代に入ってからのようです。

近世 

江戸幕府によって利根川東遷事業が行われ、利根川の水が流れ込むようになり周辺の集落は水害に襲われるようになった。またこれにより淡水化が加速し、当時人口が激増していた江戸の町の食糧事情もあって、干拓と新田開発が盛んになった。天明3年(1783年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が大量に流入、周辺の水害の激化を招く事となった。

 

この日の車窓から見た景色は、3世紀前とは全く異なるものだったのですね。

香取海という言葉ひとつ知っただけで、風景が違って見えるようです。

 

 

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