散歩をする 233 東海道本線に乗る

念願の地蔵川を見たあとは、いつもは通過してしまう箇所を東海道本線で揖斐川・長良川・木曽川の中流域を回る予定です。

 

昨年2月に木曽三川を訪ねるまでは、名古屋を出ると関ヶ原まで新幹線の車窓にはだだっ広い平野が見えるだけの場所でした。

岐阜の平野はこれらの川が作り出したことを知ってからは、木曽三川を見逃さないように、そしてその上流に見える山々のあたりまで、景色を見落とさないようにと眺めています。

 

そしていつかその中流・上流域を歩いてみようと。

 

もう一つ、東海道本線の車窓の風景を見たいと思っていました。

3~5歳の頃だったと思うのですが、当時住んでいた都内から倉敷まで東海道本線で祖父母の家を訪ねた記憶があるのです。

どこかの駅で乗り換えたことと、車内で買ってもらったアイスを食べたこと、子どもなので興奮して落ち着かないのでしょう、後ろに座っている人が気になって座席から顔を出して見ようとして母に叱られたことなど、断片的に残っています。

 

そして、蒸気機関車だったような記憶もあるのですが、Wikipediaの「使用車両」を読んでも、その記憶はどうだったのだろうと曖昧なままです。

旅客列車に関しては開業時から電化完成後しばらくの間まで、主に機関車(電化前は蒸気機関車、電化後は電気機関車)が客車を牽引する客車列車が多く運用されていた。1950年(昭和25年)より東京口において中距離電車の運転が始まって以降は客車列車の電化が進み、1968年(昭和43年)10月からは他路線に直通する列車を除いて全面的に電車運転となった。

もしかすると、1960年代前半はまだ、一部区間蒸気機関車だったかもしれませんね。

 

1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業したのですが、私の記憶ではその前の東海道本線の「優等列車」の記憶さえなくて、おそらく普通列車で倉敷まで行ったのだと思います。

若かった両親にしても、新幹線どころか優等列車もまだまだ贅沢なものだったのかもしれません。

 

それから数年後には初めて新幹線に乗り、それ以降、倉敷へは高速道路を利用するか、新幹線を利用するかという時代になりました。

そして、あの加茂神社の裏手を通過していたのでした。

 

幼少時の記憶ですから記憶の錯覚は多々あると思いますが、数少ない幼少時の記憶の一つが列車の記憶だったなんて、今思うと幸せだなあと。

 

ということで、今回は米原から東海道本線の旅をしようと計画したのでした。

 

 

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