行間を読む 187 30年とか半世紀とか時間をかけて進める

実際に吉野川のそばを少し歩いたことから、第十堰阿呆水と呼ばれる吉野川の水害の歴史がだいぶ頭に入りました。

 

現地に行く前に読んだ資料もあるのですが頭の中を素通りしていく感じで、その地域の雰囲気を知ることでようやく少し理解できる感じです。

 

さて、Wikipediaの「吉野川」を読んでいたら、ヨハネス・デ・レーケの名前を見つけました。

「明治期の河川開発〜麻名用水と第十樋門〜」に、吉野川を視察したことが書かれています。

明治期に入り近代河川技術が吉野川にも導入された。1884年明治17年)に全国の河川整備に携わったヨハニス・デ・レーケは吉野川を視察。翌1885年(明治18年)より旧内務省徳島県の共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年明治21年)7月の水害で流域は大きな被害を受け、原因を河川整備の不備・失策と見た住民は蜂起して工事事務所を襲撃し改修工事を中止に追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び、以降河川改修は中断した。

 

 

農林水産省のホームページの「土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人々」にヨハネス・デ・レーケの説明がありますが、それによると「1873年明治6年)から1903年明治36年)の30年間」日本に滞在していたようです。

自身が視察しおそらく計画にも携わった工事が住民の反対にあい中止された後も日本各地の治水や築港に携わっていたようです。

どのようにこの事態を受け止めていたのでしょう。当時、デ・レーケにもさまざまな批判や中傷があったのでしょうか。

 

デ・レーケが帰国して10年ほどで、吉野川の治水事業が再開されたようです。

大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業も復活。吉野川各地に水刎*水制であるケレップ水制が設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近には旧吉野川の洪水調整・河川維持用水を目的に1923年(大正12年)に第十堰樋門が建設された。当時日本一の樋門として吉野川の名所となり、多くの見物客が訪れた。その後1927年(昭和2年)に吉野川築堤は完成し第1期吉野川改修事業は終了した。この堤防はその後流域を襲った1934年(昭和9年)の室戸台風や1945年(昭和20年)の枕崎台風、さらには吉野川最大の出水となった1954年(昭和29年)の台風12号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御に役立った。

(*引用者注:みずはね)

 

デ・レーケらが導入したケレップ水制が設置され、デ・レーケが亡くなる前年に吉野川左岸の第十堰樋門が建設されたようですが、母国にその便りは届いたのでしょうか。

さらに没後14年ほどで吉野川改修事業が完成したようです。

 

現在の未曾有の感染症の社会の混乱を見ていると、当時の工事事務所襲撃の状況もわかるような気がしてきました。

得体の知れない不安を受け止めきれないと人の関係は容易に分裂し、暴言や対立あるいは暴力へと向かいますね。

 

そして歴史の審判を知ることもなく世を去り、当時粛々と対応していた方々の功績というのは歴史の中に静かに静かにあるのだと。

 

 

 

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