事実とは何か 74 デ・レーケが歴史に残るのに一世紀

富山を訪ねようと地図を眺めていた時に惹きつけられたのが、わずか30kmほどの海岸線に、小矢部川庄川神通川常願寺川、草月川、片貝川そして少し離れて黒部川という大きな川の河口が集中していることでした。

 

とりわけ、万葉線とJR氷見線という二つの鉄道が通っている小矢部川庄川に挟まれた細長い中洲のような場所に、目が行きました。

木曽三川分流工事を思い起こさせるような地形だなと感じたのですが、帰宅してから偶然見つけた資料で、富山にもまたオランダの技術者ヨハネス・デ・レーケが大きく関わっていることを知りました。

 

*デ・レーケと富山県

 

農林水産省のホームページの「土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと」に「内務省技術顧問 ヨハネス・デ・レーケ」の説明があり、その中に「富山県での業績」が書かれています。

1858年(安政5年)に飛騨地方を襲った大地震マグニチュード7程度)は、常願寺川の上流域である、大鳶・小鳶山を崩壊させ、立山カルデラ内に推定で4億立方メートルを超える膨大な量の土砂がたまった。このため、常願寺川は、洪水の度に土石を押し流し、流域に大きな被害を与えている。

1891年(明治24年)7月、九州から山陰、北陸、信越、東北にかけて、豪雨災害が発生した。常願寺川流域も御多分にもれず、安政の大水害に次ぐもので、堤防決壊6,500メートル、流出地1,527haに達した。当時の県知事森山茂は、国に専門技師の派遣を要請、デ・レーケが同年8月6日、富山に到着した。9月2日 、石川県へ出発するまでに常願寺川をはじめ、黒部川片貝川、上市川、庄川神通川の各水系と伏木港を視察して、治水計画を立てている。

 

この資料ではおもに常願寺川の治水計画について書かれているので、冒頭の中州のような場所にデ・レーケが関わったのかはわかりませんが、あちこちの川を訪ね歩いているとデ・レーケが関わったことが見つかるのは感慨深いものがあります。

 

デ・レーケについて初めて名前を知ったのは昨年2月に木曽三川を訪ねた時だと思っていたのですが、2013年の屎尿処理の歴史の中でも、1885〜1886年(明治17〜18年)頃、東京にコレラが蔓延した時にデ・レーケの指導で神田下水が整備されていることを書いていました。

 

日本全国の治水や土木事業に大きな影響を残したデ・レーケの名前を全く知らないままきてしまったのはどうしてだろうと考えたのですが、私が高校生だった40年ほど前は明治時代あたりも授業は駆け足で習ったような記憶があります。

5.15事件でさえまだ「歴史」として書き残すには十分な検証がされていなかったのでしょうから、昭和初期になると、ほとんどさらっとという感じでした。

 

 

そうそう、1ヶ月ほど前でしたか、常願寺川を見て「これは川ではない、滝だ」と言ったのはデ・レーケではなかったらしいという話題がありました。

事実とは何か、本当に難しいですね。

 

そして歴史になるのには一世紀ほどの時が必要で、そしていつでも新たな事実に書き換えられていくものなのですね。

 

 

これからも出会うであろうデ・レーケの名前のために、今までデ・レーケの名前が出てきた記事のまとめを作っておくことにしました。

下水道についてのあれこれ 2   屎尿処理の歴史

散歩をする 113    水害の歴史をめぐる旅

散歩をする 164   九頭竜川河口へ

運動のあれこれ 35   「琵琶湖・淀川 里の川をめぐる〜ちょっと大人の散策ブック〜」

行間を読む 93   「二度と起こしてはならない」

行間を読む 94 平城京と瀬田川

散歩をする 235   武蔵野線とアーバンクライン

発達する 30   「偉人伝」という物語から解放される

 

 

「事実とは何か」のまとめはこちら