水のあれこれ 312 東海道本線と東海道新幹線が水源

丹那盆地の歴史がまとめられた石碑を読むことができただけでも来た甲斐がありました。

 

ふと反対側の柿沢川のそばにも立派な石碑が建っているのが見えたので、近づいてみました。

 

「水道記念碑 丹那地区水道組合」

 

 丹那字 一、丹那 びんの沢 奴田場地域に 東海道新幹線丹那トンネル工事に起因する渇水対策として トンネル湧水を水源とする簡易水道事業を経営してきたが トンネル通過列車の増加と高速化により水源が枯渇され この水を生活飲料水としている地域住民に多大の脅威を与えた 地元関係者は この実情を日本国有鉄道新幹線総局に訴え続け補償問題は解決済みとの見解を取っていた当局を漸くその対策に乗り出させた

 国鉄 町並びに地元は一丸となって検討を重ね水源を新しく田代に求めることとし 田代地区と交渉の末 自然流下水の送水管工事を国庫補助事業として実施した また 予備水源として深井戸をさく井し万一に備えた 補償金の交渉は 国鉄と町との間で回を重ね栗原祐幸労働大臣の力添えもあり 七千三百二十五万八千円で妥結をみた 

 昭和五十一年来続いてきたこの困難な水道問題に当り多大の尽力をされた函南東部畜産農業協同組合 町職員地元町議会議員及び水道組合関係者各位の労を碑に刻して後世に伝える

 昭和五十四年十月

 

 

丹那トンネルの湧水が水源*

 

芦ノ湖の3倍もある湧水をどこへ排水させたのだろうと思っていたのですが、一部はこの地域の簡易水道として使われていたということにつながりました。

 

そして東海道新幹線のための新丹那トンネルは、「弾丸列車計画」として戦前には工事が始まっていたようです。

丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、元々は戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル、東山トンネルが同時に着工されている、しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない、中止されてしまった。

戦後も長らく放置された状態であったが、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4ヶ月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。(Wikipedia丹那トンネル」の「新丹那トンネル」)

 

順調に開通したものの、東海道新幹線の「トンネル通過列車の増加と高速化」によって、ふたたび水が足りなくなったことがあったとは。

そうですよね、新大阪までだったのが岡山そして博多までいくようになり、岡山まで4時間だったのが今は3時間ですし、30分ぐらいで上下10本以上を見ることができるほどですからね。

 

鉄道のトンネルや新幹線によって、水道が大きく変化してきた地域があることを知りました。

 

石碑は歴史を淡々と記録しているように読めましたが、それぞれの立場のさまざまな感情と現実をどう改善していくかの葛藤と混乱が落ち着くのに時間が必要だったことでしょう。

 

 

丹那トンネルの上にある水田地帯を見てみたいと訪ねましたが、知らなかったことが次々と湧き出してくる散歩になりました。

圧倒されながら新山バス停に戻り、ここから駿豆線大場駅に向かうバスに乗りました。

またがらがらかと思ったら、満員でした。ダイヤランドに住んでいる方々のようです。

 

半世紀から一世紀のこの地域の変遷を想像しては、少し気が遠くなりました。

 

 

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