行間を読む 189 丹那トンネルの上の歴史

2018年の倉敷の水害を機にあちこちを訪ね歩くようになり、東海道新幹線に乗る機会が増えました。

熱海駅を出るとじきに長いトンネルに入るのですが、子どもの頃に聞いた丹那トンネル建設の大変さをいつも思い出していました。

 

鉄道に関心があったわけでもなさそうな父が丹那トンネルについてなぜ語ったのか、何を語ったのかは思い出せないのですが誇らしそうだった記憶が残っています。

丹那トンネルは1934年(昭和9)に完成したので、ちょうど父は小学生そして母が生まれた頃で、世の中はその完成で大いに沸いていたのかもしれませんね。

実際には東海道本線丹那トンネルで新幹線の方は新丹那トンネルですが、その新丹那トンネルも1941年(昭和16)にはすでに弾丸列車計画として工事が始まっていたのですから、当時の人たちの期待はいかばかりだったでしょうか。

 

 

いつ頃だったか、来宮駅丹那トンネル殉職者慰霊碑があるのを地図で見つけ、いつかその歴史を訪ねてみようという計画がありました。

 

 

丹那トンネルは一旦入ると、ほんとうに長いトンネルです。これだけの長さを一世紀ほど前に掘り進める計画を立てたこともすごいことだと思いながらいつも車窓の暗闇を眺めています。

そのトンネルの上はただ山なのだろうと思い込んでいました。

地図でそこに盆地があり水田があることを知って、改めてWikipediaを読んでみました。

 

大量湧水

丹那盆地の地質構造から、トンネル掘削は大量の湧水との戦いだった。掘削工事の先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜く手法が採用された。水抜き坑の全長はトンネル本坑の2倍の15kmに達し、排水量は6億立方メートル(箱根芦ノ湖の貯水量の3倍とされる)に達した。

 

芦ノ湖の3倍」と聞いても気が遠くなるだけで私の数字の弱さが悲しいのですが、丹那トンネルは長さだけでなく排水が大変だったことがわかりました。

 

その水はどこから来て、どこへと排水させたのでしょう。

 

トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった。丹那盆地では元来、稲作を主な産業とし、清水を利用したワサビ栽培も行い、副業で酪農を行なっていた。しかし、水不足によって農作物が枯れ農地が荒れる被害が出たため、鉄道省では対策として水道の敷設や貯水池の新設などを実施した。それでも十分な効果が上がらなかったため、1932年(昭和7)に農民らは県知事に訴え、知事の指示で耕地課農林主事出会った柏木八郎左衛門が対策に乗り出して鉄道当局と交渉し、1933年(昭和18)8月に見舞金117万5,000円が交付されることになった。

完成後も丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われた。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の跡が宅地となり、7か所あったワサビ沢が消失している。こうした関係で、被害対策に尽力した柏木の提唱もあり、トンネル工事以前には副業にすぎなかった酪農が、丹那盆地における主要な産業となっていった。

 

子どもの頃から何度となく丹那トンネルを通過してきたのに、その上にこんな歴史があったとは。

今回は来宮駅の殉職者慰霊碑は訪ねることができなかったのですが、考えたこともなかった丹那トンネルの歴史が残る場所を訪ねます。

 

湧水が枯渇してから一世紀、その水田はどうなったのでしょうか。

丹那盆地、どんな風景が広がっているのでしょうか。

是非とも訪ねてみたいと思ったのでした。

 

 

 

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