水のあれこれ 322 北楯大堰

 山間部をゆったりと流れる最上川庄内平野へと出るJR清川駅のあたりで途中下車してみようかと計画を立てていた時に、駅から数百メートル西側の線路沿いに突如として「北楯大堰」と地図に描かれているのを見つけました。

 

「大堰」とついているのに堰でもなさそうで、「北楯大堰」として水路が最上川左岸へと続いています。

もしかしたらこれが米どころ庄内平野を潤す最上川からの用水路だろうか、と検索してみました。

 

すぐに「北楯大堰(きただておおぜき)」が見つかりました。世界かんがい施設遺産だそうです。

▪️かつて不毛の地であった最上川左岸側地域は、北楯大堰の開削により約5,000haの新田開発が進み、その後の57年間で46の村落が開村。

▪️1612年に着工した約10kmの開削工事は、1日約7,400人の人夫が動員され、わずか4ケ月で完成。

最上川土地改良区のサイトより)

 

1653年に開削された玉川上水よりも41年も前で、そのころは最上川左岸が不毛の地だったとは。

 

 

*北楯大堰の歴史*

 

さらに検索すると山形県のホームページに説明がありました。

 

米どころ庄内地方の礎を築いた悠久の流れ

 

北楯大堰がかんがいする地域は、1600年頃まで扇状地の平坦な地形でありながら隣接する河川より5mほど高い位置にあったため、水利用の悪い不毛の地でした。この未墾地を山形城主最上義光家臣で、狩川城主の北館大学利長(きただてだいがくのすけとしなが)は、困窮する領民を救うために10年に渡る水田開発を行い、山を隔てた地域の上流に位置する立会沢川から取水し、山際を迂回させて導水する農業用水路を建設する計画を立てました。

(強調は引用者による)

 

地図で見ると陸羽西(りくうさい)線の両沿線に「新田」という地名があちこちにあります。

てっきり最上川からの水に恵まれた土地で、あの広大な水田地帯が作られたのだろうと思っていました。

 

1612年に着工した工事は、崖に隣接する河川を埋め立てたり、山裾での掘削では地すべりが発生したりする等困難を極めました。しかし、当時暗夜に提灯の明かりをかかげて高低差を測量する高精度の測量技術や正確で綿密な設計、そして1日約7,400人の作業員を動員するなどして、わずか4か月の短期間で約10kmの水路を完成させました。本水路を基にその後も水路の建設を進めた結果、約5,000haが開田し、57年間で46の村落が新たに開村されました。

この広大な受益地内に計画的に用水を供給する役職を設置することにより、地域の米収穫量は約7倍に増量し、稲作農家の安定した収入を確保するだけでなく、農業を中心とした経済発展と農村形成に大きく貢献しました。

 

「地図と測量の科学館」で圧倒された測量の年表ですが、17世紀半ばどころか17世紀初めには提灯の明かりで高精度で正確な設計をしてこの北楯大堰が造られたようです。

 

この計画的な用水供給の原理は、当時の行政機関「郡奉行」が所管し地域の配水秩序を遵守、確保していましたが、1885年からは農家が負担する管理組織が設立され、現在は土地改良区として地域住民と協同で適切な維持管理が行われています。

今も、豊富な用水量を有する北楯大堰は、潤いの空間を地域に提供し美田と調和した憩いの場として親しまれており、町の小学校で歴史などを学ぶための副読本に掲載されるなど、歴史的資産として高く認識されています。

 

(以上、「「北楯大堰」世界かんがい施設遺産登録」より)

 

公共事業の歴史を知らなさすぎたことを痛感しますね。

そして全国津々浦々に水田が健在の理由をまたひとつ見つけました。

 

ぜひこの水路と水田を見たい。

途中下車することにしました。

 

 

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