3年ほど前に琵琶湖の水害から守るために「大日山を切り取る」という発想があったことでその名を意識するようになりましたが、ブログ内を検索すると父が修行したかもしれないお寺を探し歩いていた時の御本尊として行基作の聖観音菩薩立像がある伊豆の弘道寺で、その名を書き残していました。
いずれにしても「昔習ったような気がする偉いお坊さん」ぐらいしか知りませんでした。
訪ねた地域で現代でも行基さんと親しみが込められながら語り継がれていることに、俄然興味が出ました。
検索すると農林水産省や国土交通省などの官庁をはじめ、様々な自治体のサイトに行基さんの話があることにも驚きました。
どんな人生だったのだろう、どんな時代だったのだろうと読んでみました。
*「農と水を支えた人 行基」*
農林水産省の「土地改良偉人伝」に、「大阪府 農と水を支えた人 行基」がありました。
行基は15歳の時に出家し、法相宗飛鳥寺の高僧・道昭について修行しました。38歳の時から各地を巡り、民間布教に努めました。その一方、土木技術を習得した行基は、彼を慕い集まった庶民と共に、苦しんでいる人々を救うため、ため池や農耕かんがい施設を造りました。ため池、用水路に始まる土木工事は、さらに堀川、波止場、橋、道路へと拡大して行きました。
大阪府内には行基が造ったとされる「ため池」が、狭山池(大阪狭山市)、久米田池(岸和田市)、鶴田池(堺市)など数多く残っており、これら施設は時代を超えて地域住民に恩恵を与え続けています。行基は749年、大勢の民衆に惜しまれつつ、82歳の生涯を閉じましたが、行基が築いた業績は人々に語り継がれ、今でも行基菩薩として慕われています。
*「行基による公共事業」*
国土交通省の平成26年の白書にも「社会インフラの歴史とその役割」のなかで、「コラム 行基による公共事業」がありました。
古代における我が国のインフラ事業においては、宗教家が大きな役割を果たしました。当時、遣唐使として唐に渡った僧たちは、大陸の最新の仏教の教理を学ぶだけでなく、先進的な土木の知識や技術を身につけ帰国しました。例えば、653年に唐に渡った道昭(629~700年)は、「西遊記」の実在のモデルとされた三蔵法師玄奘から大乗仏教の利他行を学んだとされています。利他行とは、自らの悟りを追求するばかりではなく、人のために己を滅してつくす仏の道であり、一方で土木事業は、労力を提供することによって生活環境が向上し皆へ利益をもたらすことから、僧たちの考えと一致するところがあり、その学ぶところとなったと言われています。
(強調は引用者による)
公共事業の歴史を全く知らずに批判から入った私はずいぶんと遠回りをしてしまいました。
そのような中で、最も輝かしい業績を残した宗教家の一人として、道昭に師事した行基(668~749年)が知られています。当初、行基は朝廷より民衆を惑わす妖僧とされその布教活動が弾圧されました。
律令制の下、民衆は調庸といった租税の納付や役民として役務が命ぜられると、その義務を果たすために、自前の食料で都との間を往復する必要があったことから、飢えや病に苦しみ途中で行き倒れる者が多数生じました。そのため、行基は、利他行の実践のために布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し民衆の救済を図りました。また利他行を布教する傍ら、教えを実践するために、豪族からの資本提供のもと、農業用の池や溝を掘り、道を開き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていきました。こうした活動により、行基の教えに従う民衆は日増しに増加し、豪族の土地も潤うことになりました。723年には、三世一身法が定められ、これまで公有を前提としていた土地制度が改められ、土地を開墾した場合に一定期間の私有が認められたことで、自発的な開墾が促されました。こうした土地制度の変更にも後押しされて行基の活動は更に広まり、その名声もさらに高まって行きました。
*「経世済民」*
「どうなってるの?東大阪」というサイトに「温故知新 混迷時代のリーダー像 河内圏の偉人 行基から学ぶこと」(2012年6月22日)に、行基の生きた時代背景が詳しく書かれていました。
葛藤と決断
道昭は、BC700年(文武四年)に亡くなります。当時、行基は薬師寺(藤原京)にいましたが、道昭亡き後、寺を出て生家に戻ります、なぜ寺を出たかという記録は残っていません。藤井さんは、行基の"民衆への思い"を指摘します。当時の僧侶は、寺にあって、国家鎮護を祈るのが仕事です。しかし、寺の外の様子は悲惨なものでした。
続日本記には、「諸国の役民、郷に還らむ日、食糧絶え乏しくして、多く道路に饉えて溝壑に転びて塡るること、その類少なからず」とあります。この頃の税金は、地方の産物や労力でした。農民は、片道分の旅費にあたる現物をもらい、都へ向かいます。道中で行き倒れたり、流民となったりする者が続出していました。行基は民衆の苦難を救う道に踏み出します。下層の人々も人として尊ぶ感性は、この時代には稀有なことでしょう。行基37歳の時です。
「院」を拠点に、地域活性の総合事業
行基は、事前に「院」を建てます。今で言う工事現場のプレハブといった感じです。信仰の拠りどころであり、作業の打ち合わせや、飯場もかねていたと思われます。
院を拠点に、食糧の生産量を上げるため、池や運河・溝を掘ります。流通の改善のため、道路を整備し港を開きます。また洪水を防ぐため堤防を築きました。今でいう都市計画に相当します。作業は、地元の農民や流民・優婆塞(うばそく・在俗の仏教修行者)たちが担いました。庶民は、他人に働かされるのではなく、自ら喜んで働いたと予想されます。行基の事業はまさに地域を活性化させる「経世済民」の活動でした。
*行基が生きた時代とは*
その東大阪のサイトでは行基が生まれる頃の様子が書かれていました。
行基誕生の五年前、大和朝廷は百済の再興をかけ、唐・新羅の水軍と戦って破れました。(白村江の戦)大和朝廷は、唐が攻めてくる恐怖におののいていましたが、行基が生まれた年に唐と新羅が戦をはじめ、対外的な恐怖は少し和らいでいました。しかし、行基5歳の時に、古代最大の争乱である壬申の乱(じんしんのらん)が勃発します。以降、行基の生きた時代は、政争と動乱、飢饉と災厄など混迷の真っただ中でした。
(強調は引用者による)
「災厄」のひとつは天然痘で、Wikipediaの天然痘に735~738年にかけて西日本から畿内にかけての大流行が書かれています。
千数百年も前の話なのに、なんだか現代と重ね合わせながら行基さんについての資料を読みました。
「行間を読む」まとめはこちら。