水のあれこれ 325 赤川頭首工の歴史

近づくのをためらう風の強さでしたが、説明板らしいものが見えたので意を決して近寄りました。

 

1枚は「赤川頭首工水利資料標識」で、年間取水量と田植えの時期でしょうか、4月から9月まで5つの時期のそれぞれの取水量が示されていました。

水田へ水を流すというのは、こんなにも正確性が求められることなのだと今更ながらに圧倒されます。

 

もう2枚は「未来に繋ごう赤川の農業」というスローガンと共に、その歴史と現在についてまとめられた大きな説明板でした。

 

 

*「赤川流域の農業水利のあゆみ」*

 

最上義光と赤川の治水

 赤川は、大鳥池を水源とする大鳥川と霊峰月山、湯殿山から発する梵字川が合流し赤川となり、庄内平野を北流し日本海に注ぎます。豊かな水源である反面、流路が大きく変わるほどの洪水をも引き起こす暴れ川でした。

 1602年(慶長7年)、この地を治める山形藩最上義光が熊出村(現在の鶴岡市熊出)で、鶴岡に向かっている流路を東側に変える大工事を行い、河道を安定させました。このことが、鶴岡が城下町として発展する礎となりました。

 

利根川と荒川の河道を安定させるための利根川東遷事業が1621年(元和(げんな)7年)ですから、それよりも早くに手がけられたようです。

この時代の「川の付け替え」はほんとうにダイナミックですね。どのような時代の雰囲気があったのでしょうか。

 

 

広大な実りある大地を拓いた先人たち

 赤川流域では、このころから徳川幕府中期までに赤川を水源とする9つの堰(水路)*が先人の努力で両岸に築かれ、地域の水田開発に寄与してきました。

(*9つの堰(上流より) 熊出堰、三ヶ村堰、青龍寺川堰、大川堰、志田堰、因幡堰、五ヶ村堰、中川堰、大宝寺堰)

 

青龍寺川の開削と工藤掃部(かもん)

 青龍寺川は、慶長年間(1610年頃)に京田郷本郷村(現在の鶴岡市本田)の土豪、工藤掃部によって開削された我が国でも稀にみる優れた人工河川です。青龍寺川の呼称は、元禄年間(1688年〜)に記された「奥羽道程記」が初見とされています。

 

②中川堰の開削とその歴史

 1460(寛正元)年、中川堰・天高堰として開削され、1615年(元和元年)、最上氏の赤川河道設定によって取水口を含め用水路の大改修がなされ、その後もいくどかの改修が行われました。旧中川堰は現在、馬渡川と呼ばれ、その桜並木は観光名所としても親しまれています。

 

③新関因幡守久正(にいぜきいなばのかみひさまさ)と因幡

 1607(慶長12)年、藤島城主・新関因幡守久正は水不足に苦しむ地域を憂い、赤川(黒川地点)を水源に新たな取水堰工事に着工しましたが、最上氏の改易で中断します。1706(宝永3)年、荘内藩主・酒井忠真によって念願の堰は完成、久正の功績を称え「因幡堰」と呼ばれています。

 

それぞれの堰を訪ね歩きたくなりますね。

 

農業水利施設の再編・整備

 

国営赤川農業水利事業等の実施

 昭和に入ると赤川の河床は年々低下し取水が困難となっていたため、各地ごとの取水を新設する赤川頭首工に統合し、一貫した用排水系統の見直しを行う「国営赤川農業水利事業」(S39~)を行い、また、県営事業等による支線用水路の整備、区画整理等が行われました。平成に入り、建設後相当の年数が経過し施設の老朽化が著しいため、頭首工など基幹的な施設の改修などを行う「国営赤川二期農業水利事業」(H22~)を行われ、維持管理の軽減と農業経営の安定化が図られています。

 

 

地図でたまたま見つけた「頭首工バス停」から、また圧倒される歴史にたどりつきました。

 

そしてこういう歴史をまず知ろうとしていたら、私もただ批判の目で曇らせることはなかったと反省することしきりです。

 

*おまけ*

 

「赤川地区」の紹介も書かれていました。

 赤川地区は、鶴岡市酒田市三川町にまたがる約1万haの優良な農業地帯です。水稲や畑利用による大豆、地域特産物の枝豆、赤カブ等の栽培が盛んです。これら地域農業を支えてきた一つに「農業水利の開発・整備」があります。

特急いなほの車窓から見えた庄内平野は「赤川地区」でもあり、この赤川頭首工からの水がその地域を潤しているようです。

地図でバス停を偶然見つけて出かけましたが、とても大事な場所に導かれたようでその偶然に鳥肌が立っています。

これだから散歩はやめられませんね。

 

 

 

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