落ち着いた街 42 鳥海山と月山に見守られた鶴ヶ岡城址

赤川頭首工から戻り、9時16分に内川通りバス停で下車しました。

すでに33度まで上がっていますが、午前中なのでまだ歩けそうです。

 

広々とした鶴ヶ岡城址と市役所周辺の地域ですが、全国あちこちの旧城下町を歩くと感じる落ち着きというのはこのゆったりした街並みにも理由があるのかもしれません。

 

内川のそばにバス停があり、城址へと向かう赤い橋が見えました。

お堀のような流れで、昔は外堀と運河を兼ねていたのだろうと想像しながら橋の途中で立ち止まると、北に鳥海山が見えました。

ここから直線距離でも50km近くありそうなのに現代でも途中の建物にさえぎられることもなく市街地から鳥海山を眺められるなんて、鳥肌が立ってしまいました。

 

関東のあちこちから富士山を眺めることに喜びを感じるのに似ているでしょうか。

 

と、当日の写真を見直していたら、市役所の敷地で撮った説明板がありました。

朝陽学校跡・朝陽学校碑

 県令三島通庸は、文教の刷新をはかるため明治九年この地に近代的な学校を建てた。

 この学校は、洋風三階建てで、三階から遥か南方に朝日岳を望むことができることから、生徒の学力が朝日が昇るように向上することを願い、「朝陽学校」と名付けられ当時東北一の規模を誇った。

 正面通路東側の石碑は、この学校の建設を記念して明治十七年に建てられたものである。大要は、前述の校名の由来のほか、この地における学校建設の意義深さや、学んだものが後に名実ともに優れた人物となってはじめてこの学校が意義あるものとなること、等が記されている。

 この建物は明治十六年消失し、翌年松ヶ岡養蚕場の一棟を移して小規模校舎を再建した。

 明治四十一年朝陽高等小学校となり昭和十年、現在の山大農学部の地に移転したが、昭和二十二年新学制の実施に伴い廃校となった。この地に市役所が建ったのは昭和十三年である。

「朝陽」の名は今も市内六つの小学校の校名に残されている。

昭和六十一年三月三十一日  鶴岡市

 

朝日岳」、鳥海山とは反対側の朝日連峰のことのようです。

川だけでなく、山の存在というのはその地域の風土に深い何かを遺していくものですね。

 

それにしても「学んだものが名実ともに優れた人物になってはじめてこの学校の意義がある」、現代には耳が痛い言葉です。

失敗から得た教訓でしょうか、大事なことがここかしこに書き留められているのも落ち着いた街の理由かもしれません。

 

 

*生活の中に思索する場所がある*

 

 

市役所の前が鶴ヶ岡城址公園ですが、市役所と変わらない平地でした。てっきり石垣が高いお城を想像していました。

内堀の一部でしょうか、橋を渡って公園内に入ると少しだけ城内の方が高いように見えました。

 

ぐるりと取り囲むお堀も石垣は低く、池といった感じです。菖蒲が植えられていて、花の季節には美しい景色になりそうです。内堀に沿って遊歩道があり、途中の東屋でお堀を眺めて一休みしました。

 

風の音が聞こえる以外、静寂です。なんと贅沢な時間でしょう。

東屋以外にも、遊歩道は木陰が続いていて城内を眺めるようにベンチが置かれています。

9時半ごろでしたが、そこに座って静かに読書をしたり休む人の姿がありました。

 

周囲は住宅地で、生活の場にこんな落ち着いた場所があるなんて羨ましいですね。

 

一休みしたあと、緑の美しい遊歩道の風景に誘われて北側へと歩いてみました。

西側の外堀もまた美しく保存されていて、その向こうに月山が見えました。

こちらもまた、さえぎるものもない姿です。

 

どこまでもどこまでも鳥海山と月山に見守られているかのような鶴ヶ岡城は、城址が保存されているだけでなく、その時代に眺めていた風景もまた保存されているかのようでした。

 

 

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

「城と水」のまとめはこちら