5月の散歩の記録が追いついていかないのですが、5月初旬に出かけた絶対に都県境を越えない散歩です。
昨年夏に、実篤公園と入間川を散歩したのですが、10月に入って「東京外郭環状道路の地下ルート上にある市道が陥没」したニュースがありました。地名を聞いて、あのあたりだとすぐにわかりました。
その時に地図を見直したのですが、甲州街道の北側では暗渠になっている入間川の上流が気になって、いつか歩いてみようと思っていました。
なんとなく暗渠のような遊歩道のような場所が、途中、開渠部分を挟んで中央高速道路のあたりまでつながりそうです。
ここを歩くことにしました。
つつじヶ丘駅について、その遊歩道らしき場所には「中仙川遊歩道」と名づけられていました。ただ、途中で二手になっていて、そのどちらも遊歩道になっています。どちらを歩こうか悩んでいたら、急に冷たい風が吹き始め、雨がポツリと落ちて雷鳴が聞こえ始めました。
その日は、残念ながら駅に引き返して、散歩は中止しました。
*中仙川遊歩道から中原へ*
3日ほどして、前回のリベンジで再びつつじヶ丘を訪ねました。
最初は住宅地の間の細い遊歩道でしたが、道なりに歩くと、右手は小高い場所になっています。おそらく崖下にあった実篤公園の地形の続きだとわかりました。甲州街道がこの辺りで、上り坂になっていた理由も同じですね。
この崖のような場所に沿って、小さな流れがあったようです。
地図で水色に描かれていた場所は、実際には暗渠で遊歩道が続いていました。
その流れが西から北へと大きく蛇行する辺りでは、今度は左手が小高くなっています。
地図では想像ができないほど高低差があり、上ったり下ったり、遊歩道がなければ完全に道に迷ったことでしょう。
道路面も水平ではなく、地形そのままに道を造った時代のものと思われるような斜めの箇所も多く、歩くのもちょっと不安定です。バリアフリーなんて言葉のなかった時代に、道がまず必要とされたのですね。
帰宅してから地図を見直しても、どこを通ったのかよくわからなくなるほどの迷路っぷりでしたが、住宅地の真ん中に忽然として広い畑が広がり、そこに水が流れていました。
中央高速道路の下に続いているのですが、暗渠になる手前では水路内に草は生えているのですが、水の流れはありません。
中央高速道路下の100mほどの開渠部分のどこからか水がで始めて、先ほどの畑の辺りではけっこうな水量になっているという、手品のような水路でした。
「みたか環境ひろば」(2010年10月、みたか環境活動推進会議)に中仙川遊歩道の説明がありました。
中仙川遊歩道は、三鷹市中原の西側を北から南に向けて近幸橋辺りでカーブし西から南に、甲州街道まで住宅街の間を縫うように通っている遊歩道です。
この道は、中仙川を、昭和51年から、中原4丁目17番地から甲州街道に至るまでを、順次暗渠(あんきょ)にし、その上を遊歩道にしたものです。遊歩道に沿っては、花壇が作られ、季節ごとの植物が植えられています。
中原4丁目17番地から始まり住宅街を通り、中仙川通りを横断すると、つつじヶ丘京王住宅の住宅街に入ります。そこは、南側が高い崖になり、その下がこの道になっているせいか、夏は涼しく、つつじヶ丘の駅に向かう人が多く通る道になっています。
この地域の住民は、道をきれいにしたいと、有志で花壇に花を植えたり、掃き掃除をする人がいます。
このような地域の人びとの思いで、中仙道遊歩道は、気持ちよく通れる道になっています。
「中仙川遊歩道」で検索すると、散歩をして文章に残している先人の方々の記録がいくつもあります。
その中でも「東京の水2009 fragment」というブログは、私のような雑な歩き方ではなくて、都内の川を網羅するように正確に歩かれていて、この中仙川遊歩道と入間川についても地図付きで記事がありました。
それによると、深大寺用水と仙川用水も途中、この中仙川に合流していたようです。
1976年(昭和51年)に遊歩道が整備されたようですが、当時はこの辺りは複雑な地形に農地があり、いくつも水路があったのではないかと想像しています。
それが合流して入間川になり、実篤公園のあたりにまだ斜面に梨園が残る風景になっているのでしょう。当時は相当の水量があった場所だったのではないかと想像します。
1970年代終わり頃に、京王線に乗ってつつじヶ丘付近に来たことがあるのですが、当時はまだまだ畑が広がっている郊外の風景だったような記憶がかすかにあります。
沿線の風景の変化がわかるような写真集を探してみようと思います。
「散歩をする」まとめはこちら。