狭山池博物館を訪ねる計画で楽しみにしていたのが行基さんの資料を購入することでした。
私もすっかり現代も「行基さん」と親しみを持って呼ばれる方のファンになってしまいました。
どっしりとしたページ数もある行基さんの資料がありましたが、翌日は今回の散歩の最大の目的のために歩き回る予定ですからあきらめ、特別展の資料2冊を購入しました。
1冊は「特別展 行基と狭山池」(大阪狭山市立郷土資料館)で、最近のものかと思ったところなんと平成5(1993)年のものですからちょうど30年前に発刊されたものでした。
もう1冊は「特別展 狭山池と重源上人」で、重源(ちょうげん)上人という名前もどこかで目にしていた記憶はあるのですが、狭山池とつながり購入してみました。
こちらの特別展は平成6(1994)年だそうで、その「ごあいさつ」にはこんなことが書かれていました。
奈良時代に行基菩薩によって改修されたと伝えられる狭山池は、より多くの水量を確保するため、現在大規模な治水ダム工事が進められています。これに伴う発掘調査によって今日に至るまでの池の修築の歴史が明らかになりつつあります。
昨年十二月、池の発掘現場で江戸時代初期の巨大な中樋遺構が現れました。大型船材の利用、鎌倉時代改修時の樋石、石碑の転用など池の工事にかかわった多くの人達の労苦や治水灌漑の工夫の場景が鮮やかに甦りました。この様子はテレビ、新聞などでも報道され、大きな反響を呼びました。
当館では狭山池の歴史と新しく生まれ変わる池の重要性について考えるため、昨年から特別展を開催してきました。そして今回の「狭山池と重源上人」の企画中に中樋の発見となり、重源の改修時の樋石や石碑が現れたのです。
狭山池の改修に尽力した重源の遺徳を偲ぶまことに時宜を得た展観となり、関係各位のご協力によって開催の運びとなったのは幸運です。深く感謝申し上げる次第です。
本展が多くの人々にとって狭山池と郷土資料館への理解を深めていただく機会となれば幸いです。
平成六年十月 大阪狭山市立郷土資料館
29年後の今読んでも、偶然にも遺構が見つかった当時の興奮が伝わってくるようです。
1993年から94年、私はテレビは持っていなかったので新聞は隅から隅まで読んでいたつもりですが全く知りませんでした。
むしろ知ったとしても公共工事の歴史を全く知らず批判から入った私には、「現在大規模な治水ダム化工事が進められています」だけで心を閉ざしていたかもしれませんね。
こうして特別展の資料が大事に保存され販売されているおかげで、私自身の空白の30年間を取り戻すことができました。
それにしてもこうしてどこかで関心がつながり、訪ね求めながら社会の中に記憶と記録が残っていくのですから、人間の社会とはダイナミックだと感じました。
*おまけ*
重源上人さんのWikipediaを読んでみたところ、こんな箇所に目がとまりました。
建久3年9月播磨国大部庄にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時及び周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力の誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を取り違えば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している。
(強調は引用者による)
そういえば昨年12月22日に「病院でマイナ保険証を拒否されたら国に連絡を」がニュースになりましたね。拒否したというより、診療をスムーズに進めるためのそれぞれの施設の事情もあるでしょうに。
中世でさえ恫喝的な進めかたは「失敗」のように記録として残されるのですから、現代のそれはどのように後世に伝わるでしょうか。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら。