行間を読む 204 大和川付け替え前の新田開発の地

行基さんの生家を訪ねたあと、その斜め向かいにある家原大池に立ち寄りました。

東側の体育館や南側の公園はおそらく池を埋め立てたのだと思われますが、家原大池の歴史がわかるような説明は見つけられませんでした。

 

広大な池の道路を隔てた北側が小高くなっていて、その裾に何か史跡があるので立ち寄ってみるとお城の跡でした。

原城

 16世紀中頃は、三好長慶が近畿・四国地方で九ヶ国余りを制圧し、和泉国もその支配下にありました。しかし、永禄8年(1565)以降、三好長慶重臣であった松永久秀が、長慶の後継者である三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになり、家原城においても対立した状況が、以下の資料でわかります。

 「細川両家記」によると、永禄9年(1566)2月、家原城には松永方の泉国の侍たち(泉州衆)がたてこもっていました。泉州衆は城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(現在の上野芝)で三好義継の軍勢13000と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れました。

 永禄11年(1568)9月には、織田信長の勢力が、三好三人衆を破り、畿内を平定しました。しかし、「細川両家記」によると、同年12月には、三好義継の家臣の寺町左衛門大夫(さえもんだいふ)・雀部治兵衛尉(ささべじひょうえのじょう)らがたてこもる家原城が、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。この戦いは、翌年の2月27日に上杉謙信にも伝えられました(『上杉家文書』)。

原城から逃れた人々は、踞尾(つくの)、家原に住み着いたといわれています。

 現在は、大幅に地形が改変されていますが、大池に面した部分にかつての家原城の面影を見出すことができます。

   堺市 2013年9月

 

歴史人物の記述は目が滑ってしまうのですが、案内板の絵図では堀に囲まれた家原城と、その南西に池が描かれ、石津川に挟まれた地域と東側に「田」とあるのが目に入りました。

 

てっきりこのため池も行基さんに関係があると思ったのですが、中世あたりからの新田開発のためでしょうか。

かつての田んぼのあとは片側3車線の府道61号が真っ直ぐに通り、家原城の背後には堺市総合医療センターが要塞のようにそびえていました。医療センターの入り口になぜか大きな青銅の象がいました。

 

津久野駅の近くでお腹が空いて関西風のうどんをむしょうに食べたくなり、お店に入ってうどんと親子丼のセットを頼みました。このあと古墳群を歩くので腹ごしらえが大事ですからね。

子どもの頃から食べ慣れた関西風の味とやわらかめのうどんに、「これを食べたかった」と大満足でお店を出て津久野駅に向かいました。

 

 

*津久野と踞野*

 

片側3車線の府道の周辺はマンションも多く最近開発された街かと思ったのですが、ふらりと寄ったお店の昔懐かしい味に、帰宅してから「津久野」はどんな歴史のある街なのだろうと検索してみました。

 

Wikipediaの「津久野駅」にかつては「踞尾」表記だったことが書かれていて、家原城跡の案内板にたしかに「踞尾」と書かれていることと繋がりました。まず読めないですね。

 

Wikipediaに「踞尾村」の説明がちゃんとありました。

その中に「1698年(元禄11年)に当村の北村六右衛門が摂津国西成郡の三軒家浦に新田を開発」に目が止まりました。「浦」に「新田開発」、これは干拓でしょうか。

ここから2kmほどで海岸になります。

 

大阪は土地勘がほとんどないのでWikipediaの「西成郡」を読んでもなかなか地図と重なり合わないのですが、以下の部分が何かこれからのヒントになりそうです。

一方、淀川や大和川は流してくる土砂は上町台地のはるか西の沖合いまで、いくつもの支流と小島を作って海を埋め尽くすようになった。この土砂は通行路である河川を浅くしてしまい、洪水や氾濫の原因にもなる厄介なものだったが、次第にこれらの新しい島も新田開発が進められるようになった。

 

今回の散歩は大和川のあちこちを歩いてみようというものでしたからね。

歩いた時には気づかなかったのですが、あの辺りは1704年の大和川の付け替え以前の新田開発の場所だったようです。

いつかまたこの大和川付け替えの前後の時代の行間をもっと歩きたいものです。

 

津久野のお店にふらりと入らなかったら、街の雰囲気からこの歴史にたどり着かなかったかもしれません。

これもまた散歩の醍醐味ですね。

 

 

*おまけ*

 

以前から歴史上の人物についての記述は目が滑って頭に入らなかったり、「何人衆」という表現にも興味がなかったのですが、最近の様子と重なりあって気になるようになりました。

 

「何人衆」と言われることで現代の政治家はもしかすると歴史上の人物になったような錯覚があるのかもしれませんが、最近の私は「軍勢13000」と一括りにされるような一人一人の人生の方が気になります。

少数者の利益のために一蓮托生で犠牲になった人々だったのか、見につまされる時代ですからね。

 

 

 

 

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