米のあれこれ 76 武庫川の両岸の水路と田んぼと新幹線

昆陽寺の前にある水路と小さな公園の美しさに癒されたあとは、しばらくただひたすら交通量の多い国道171号線を歩いて武庫川の土手を目指します。

 

途中で水音が聞こえてきました。地図には載っていない昆陽池からの分水路が開渠になっていて、轟々と水が流れていました。

近くに「師直塚」の説明がありました。

 足利家の武将高師直(こうのもろなお)は、観応(かんのう)二年(一三五一)上杉能憲(よしのり)勢の待伏に遭い、この地において子息五郎、弟師泰(もろやす)と共に討たれ、高一族は滅ぶことになった。

 高師直は、南北朝の武将で足利尊氏が上洛の折、すでにその側近にあり、足利家の執事として、北畠顕家(あきいえ)を倒し、河内の南朝軍を弟師泰とともに制圧し、楠木正行(まさつら)を敗死させるなどの功績があった。

 師直らの没後、この辺りに墓らしき塚が残されていた。いつしか耕作の妨げになるとしてくずされたが、師直らの魂をしずめるため、大正四年、山田村の有志により現在の師直塚が建設された。その後、国道の拡張工事などによりこの場所に移された。

 平成五年三月一日       伊丹市教育委員会

 

「栄枯盛衰」ですね。

 

「耕作の妨げになる」とくずした山田村は国道171号線の東側の「山田」地区あたりでしょうか。

地図に描かれているその山田地区の水路は昆陽池からだけでなく天神川からの水路もきているようで、このあたりから東側へと下り坂になっていますから伊丹台地のまさに端っこを歩いていたようです。

 

*新幹線から眺めていた風景を歩く*

 

国道171号線が南へ大きく曲がるところから7~800mほどのところに新幹線が通っています。

疲れも吹き飛ぶ新幹線が見える場所を楽しみに歩いていると、高架橋が見え始めて白に青の車体が静かに通過していきました。

 

新幹線の高架橋の200mほど手前のビルの裏手に水田が見えたので、思わず道を曲がってその田んぼを見に行きました。

住宅が建ち並んでいるので車窓からは見え無さそうな場所に田んぼが広がり、黄金色になった稲穂が揺れていました。なんだか宝物を見つけた気分ですね。

 

新幹線の高架橋沿いに西へと歩くと田んぼはその一帯だけで、あとは住宅地が続いている中に2列の水路がありました。地図でたどるとここから複雑に幾つもの分水路になり南東の武庫之庄へと流れ、また合流しながらいく筋かの川となって尼崎の先の海へと流れ出るようです。

 

武庫川を渡るために一旦新幹線の高架橋から離れて国道171号線に向かって歩きました。住宅街の中に水路があちこちに残っています。時々、ヒューっと音がし始めると後ろを振り向いて新幹線を眺めました。

 

 

武庫川を渡り右岸へ*

 

国道171号線の高架橋沿いに下の道を歩くと、目の前に武庫川の土手が近づいてきました。

土手に上る石段のそばに池があり、睡蓮が水面を覆っていました。個人所有のため池のようです。どんな歴史があったのでしょう。そのそばにも水路に滔々と水が流れています。

 

土手に上ると黄色っぽい砂地の美しい武庫川の流れと少し離れた場所の山々が見え、北側の高架橋を新幹線が通過していきました。

2018年に倉敷まで往復した時に「美しい武庫川」と印象に残ったのは、ここから少し上流にある堰のあたりが車窓から見えたのでした。今回は残念ながら訪ねる時間はなかったのですが、その堰からの水路と水田を見ることができました。

 

交通量の多い国道の橋の上は一人歩けるぐらいの幅の歩道がありますが、川風と車の通過する風に煽られそうで足がすくみながら歩き始めました。

誰も歩く人がいなさそうでしたが、途中で右岸側から自転車にたくさんの空き缶を載せた男性がこちらに向かってくるのが見えました。どうしたものかと思っていたら、自転車をかなり端によけてくださりお互いに無事にすれ違うことができたのでした。

 

きっと次に新幹線で武庫川を渡る時にはこの橋とともに思い出しますね。

 

武庫川左岸の田んぼ*

 

無事に橋を渡りきり西宮市に入りました。左岸側の土手を降りるとこちら側も土手のすぐ下に水路があり、地図を見るとやはりあの新幹線から見えた堰からの水路のようです。土手の下をぐいと曲がってしばらく武庫川左岸に沿って流れたあと甲子園の北西へと向きを変えて、最後は西宮の海へと流れるようです。

そのそばの空き地に、ツルボが咲いていました。対岸の伊丹市側の土手には見つけられなかったのに本当に不思議な広がり方をする花ですね。

 

ここから2kmほどの阪急電鉄門戸厄神駅まではバスもなく歩ききらなければならないのですが、ツルボと水路のおかげでまた元気が出ました。

 

再び国道171号線の歩道に出ると、ずっと先まで平地で4車線の道路と建物だけが見えています。

蒸し暑くなってきた中ただひたすら歩くことに集中していたら、沿線に田んぼがありました。

かつては水田地帯だったことが感じられると急に親しみを感じてまた田んぼの痕跡を見つけながら歩き、最後にぐいっと阪急線を越える跨線橋を渡って12時20分予定通り門戸厄神駅に到着しました。

 

散歩の途中ではなかなかお昼時の空いている時間に入ることができないのですが、計画通りに到着できたらここに入ろうと決めていたお店に入ることができました。奮発して天ざるを食べ、満足して店内を見るとそこに昭和50年代ごろの写真がありました。

今よりも畑がずっと広がっていたようです。

 

初めて山陽新幹線に乗ったのが開業直後だったのですが、当時はこのあたり武庫川の両岸は田んぼや畑だったのかもしれませんね。

車窓の風景の記憶がないことが残念です。

 

 

*おまけ*

 

門戸厄神駅を目指したのは国道171号線沿いに歩くと突きあたることも理由ですが、加古川沿いの厄神駅を思い出してどんな場所なのか歩いてみたいと思ったからでした。

 

帰宅してWikipediaの「門戸厄神駅」を読むと、満濃池の築造に関わった弘法大師にゆかりのある東光寺から来ているようです。

 

「その他」にこんなことが書かれていました。

・1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では駅の倒壊は免れたが、すぐ隣を通る国道171号線跨線橋(門戸大橋)が線路上に落ち、線路をふさいだ。この跨線橋はすぐに撤去され、同年1月23日より当駅と西宮北口駅との間が単線運転で復旧した。また、当駅と隣の甲東園駅の間には山陽新幹線の高架橋が通っているが、この高架橋も震災の際に落下し、線路をふさいだ。こちらは同年2月5日に復旧している。

 

新幹線の高架橋が落下するほどの震災だったことを改めて思い出すとともに、その復旧の速さにも驚きますね。

そしてあの辺りの水路はどんな被害があったのでしょう。

 

 

 

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