散歩の3日目、いつもの通り薄明るくなっていく窓の外を眺めながらテレビをつけていました。
遠出をするようになって「旅の醍醐味」といえるのがこの朝の時間です。
窓の外の風景を眺めていると、さまざまな人の生活がこの社会をつくっていることにしんみりとしてきます。
日常では出勤の準備やら家のことに追われているし、自宅の窓の外の風景も見慣れてしまって何も感じないのですけれど、外から見たら私の地域の生活もこんなに輝いているのだなと。
白々と明るくなってくると、前日に歩いた場所や元海岸だと思われる崖線の森が見えてきました。
今は海岸線まで一つの無駄も許されないかのように建物でぎっしりと覆われていますが、少し散歩したことでかつての豊川河口の海岸線まで想像できそうです。
豊橋駅のすぐ近くには工場があったり、鮮やかな黄色の何か大きな機械が見えます。
どんな仕事があるのでしょう。
そうこうしていると6時30分、新幹線のホームに人影がぼちぼちと見え始め、6時35分に大阪方面、6時37分に上りの新幹線が朝日に輝きながら出発していきました。ドアが閉まりゆっくりと出発して加速していく様子まで見えます。
こうした一つ一つの仕事に責任を持っている人たちで社会というのは維持されているのだと、仕事から離れた休日なのにやはり仕事とは何かを考えているのでした。
「旅の醍醐味」の朝の時間のもう一つの楽しさが、ふだんは見ることがないBSの番組です。
たまたまつけたら、三豊で葡萄栽培をしているフランスの方の番組でした。
三豊、その1ヶ月ほど前に近くまでいきながら計画をあきらめた三豊干拓地のある地域ですね。山側にはこんな生活もあるようです。
人が国境を超えて行き来しながら新しい生活が生まれ、時代がそれに追いついていく。なんだかダイナミックですね。
*死ぬまで生活は続く*
でもまだ若い時期にはなんでもやってみようで挑戦していても、歳を経るとともにどうやって生活していくのだろうとちょっと不安も感じていると、ニュールンベルグの老人ホームの番組になりました。
「老人ホーム」といっても日本でイメージする自宅か施設かとか施設にも入れず孤独死かとかといった悲壮なものではなく、庭を眺めながらベンチに座ってビールを飲んでいる人たちが映し出されていました。
食事はその中にレストランがあるそうです。
その地域で生まれ育ち社会を担ってきた方々が、高齢になると住居を移してここでのんびりと過ごすようです。
年金だけでは終の住処にも入れず、介護度とともに生活の場を転々と変えなければならず、それまで築いてきた「健康で文化的な生活」のレベルをかなり下げなければならない日本とは違うようです。
日本でそれまでの生活レベルも維持したいといったら、億の単位が必要な施設になってしまいますからね。
わずか20年ほどだというのに飛躍的に制度が整った介護の世界ですが、元気なうちに終の住処を準備をすることはむずかしく、介護が必要な状態になって初めて探さなければいけないし、ようやく施設に入れても体調を崩せば退去してまた一から施設探しという状況です。
それに比べてそのニュールンベルグの「家」は、まだ自立した生活をしている時期に入ることができて、終の住処になっていくようでした。
日本だと「まだ元気すぎてその対象ではない」と、相談さえ門前払いになりそうな年代ですね。
*政党政治の対立ではどうにもならなさそう*
生活の声までも、「資本主義」か「社会主義・共産主義」というイデオロギーの対立に囚われている日本では、せっかく介護という良いシステムをみんなで築いても、政治がずれてしまっているように思えてきました。
ケアを充実させてほしいという生活の中からの問題提起も、国政の延長のイデオロギー対立で揉み消されてしまいやすいですね。
もう「社会主義が」「資本主義が」で対立する時代ではないのに。
その問題解決のためにはどのような政策が良いのか、その政策がうまくいかなければどこを直したら良いのかという見直しができるには、イデオロギーは不要どころか邪魔にさえなるのに。
自分が介護(看護)される側になった時には経験を声にする力もなくなるので、ケアされた側の情報は圧倒的に少ないですからね。
そしてケアとは何かという視点で生まれてから死ぬまでの生活を守ることを考えれば、保育と介護を対立させるような政策の方向性もまた失敗だとも言えそうです。
「〇〇主義の〇〇党」というフィルターを通さないと政治家を選べない今の選挙制度や国会運営は失敗だし、ましてや政治家で居続けることで多大な利益と権力を得ることが目的になっているシステムでは無理だろうなと、朝から考えたのでした。
時々「旅の醍醐味の時間」があるから、日常の生活を違う視点で見ることができる。
そんな朝の時間でした。
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