米のあれこれ 79 目久尻川の水田地帯と河童

数年前から年に何回か東海道新幹線に乗るようになって、最初の頃は大きな川がランドマークでした。そのうちにいつの間にかその前後の景色を記憶するようになってあの温水プールが見えるとじきに相模川だと覚えました。

 

新幹線の線路に対して斜めに川が流れていて、その三角形の土地を利用して建っています。焼却炉を利用したプールのようです。

 

海老名市本郷にある「高座清掃施設組合」は、海老名・綾瀬・座間市で構成する特別地方公共団体(一部事務組合)です。同組合には高座施設組合屋内温水プールがあり、座間市民も利用できます。

座間市ホームページ)

25メートル×6コースのプールがあり、1993年に造られたようです。

長いごみ戦争の解決策として、こうした施設が各地にでき始めた頃でしょうか。

 

そのすぐ横に流れる川の両側は田んぼで、川沿いを散策している人の姿が車窓から見えます。「あのあたりを歩いてみたい」「できればそのプールでひと泳ぎしたい」と思ったのですが今回は時間がないので散歩だけにしました。

 

 

倉見駅から目久尻川へ*

 

倉見駅に降り立つと、金木犀の香りがどこからともなくしました。昨年の秋はほとんど金木犀の存在がなかったのは猛暑のせいだったのでしょうか。

 

駅から東へと歩き始めて新幹線の高架橋をくぐると、そこに小さな赤い鳥居がありお狐様が祀られていました。

このあたりは新幹線のすぐそばまで家々が立ち並び、その敷地が三角形になっていました。

1960年台は田んぼで、畦道を対角線上に突っ切って新幹線の高架橋が造られ、そのあと住宅地になったのでしょうか。

ここから少し高架橋から離れて歩くと、キリンのビール工場がありそばに用水路が流れています。幅広い暗渠が歩道になっているので、元はこの辺りの田んぼを潤していた幹線水路でしょうか。

 

道路に対して新幹線の線路が対角線状に通っているので、離れたり近づいたりして線路のすぐそばにある倉見神社の鎮守の森を目指しました。

ただただ平らな場所でしたが、倉見神社の東側に広い畑がありその先からは下り坂になりました。

 

突然歩道もなくなったので頻繁に通過する大型車を避けながら下ると、あの川沿いの田んぼの風景とプールと清掃工場が見えてきました。

川のすぐ手前に小さな水路があり、「あぶない!!水が深いので、ここで遊んだり、魚をとったりしないようにしましょう。 藤沢市 目久尻川用排水組合」と注意書きがありました。

季節によっては人喰い川になるのでしょうか。

 

そこからは平らになり、稲刈りがほとんど終わった田んぼの中の一角に、黄金色の稲穂が残る風景が広がりました。

色づき始めた野葡萄の実が歩道まで伸びていて、その神秘的な生活史を思い出しました。

 

いつも車窓から見ていた川と遊歩道とプールを橋の上から眺めていると、東海道新幹線が通過していきました。

大満足!

 

ここから対岸へと上り坂になり、柿の果樹園になっています。

釣竿を持った少年たちが川へと近づいていきました。

 

 

目久尻川と河童*

 

この水田地帯をまっすぐに流れるのが目久尻川(めくじりがわ)で、Wikipediaの「名称の由来」にちょっと怖い伝説が書かれています。

一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。

 

その脚注にある海老名公式ウエブサイトには、もう少しこの地域のことが書かれていました。

目久尻川は、座間市栗原の小池と芹沢という二カ所から流れ出て、初めは「小池川」と呼ばれていますが、海老名に入ると「目久尻川」と名を変えます。目久尻川の由来については、河童の話が伝えられています。

国分を流れる目久尻に、いつのころからか河童が住みつきました。ところが、年月がたつにつれて仲間が増えて、食べ物が足りなくなってしまいました。腹ペコでは思うように泳ぐこともできません。河童たちは仕方なく、夜になると川の近くの稲や野菜を、こっそり盗むようになりました。初めは遠慮をしながら盗み食いをしていましたが、なれてくると、やがて手当たり次第田畑を荒らし続けました。

被害が少ないうちは、人々もあまり気にしませんでしたが、一晩にごっそり食べられてしまうようになると頭を悩まし、田畑を荒らす犯人が河童たちだと知ると、怒りに怒って河童退治を行うことにしました。

人々は手に鎌などを持って、目久尻川の上流と下流に分かれ、パチャ、パチャと川狩りを行い、次々と河童を生け捕りにしていきました。そして、大きな体で最後まで暴れまわった河童の親分も、やっと取り押さえることができました。

いよいよ処刑ということになり、まず、親分を川のほとりの砂の上に引きすえて、子分の河童たちが見つめる中、憎さのあまり「思い知れっ!」と刃物を河童の目に突き刺し、ぐるりとひとえぐりして、その大きな目玉をくじりとってしまいました。ほかの河童もそれぞれ罰せられて、河童退治は終わりました。

河童の目をくじり取ったということから、目久尻川の名前が生まれたのだ、と言われていますが、これはあくまで昔話の世界です。

以前の目久尻川の流れには、U字形をした場所や直角になっている場所があって、大水の時は水の勢いが、出っ張っている川岸の土を抉り取って流してしまったに違いありません。このように、目にあまるほど川岸を削り取るので、「目久尻川」の名がついた、というのが、本当の理由だったのではないでしょうか。

 

 

Wikipediaの「水質」を読むと、目久尻川もやはりあの川が最も汚れていた時代があったようです。

 

昔の人は何を見て「河童」の妄想になったのでしょう。

次にこの小さな目久尻川の両岸に広がる田んぼを車窓から見たら、河童との攻防戦が見えるかもしれませんね。

 

 

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