たしか「ブラタモリ」で深谷の回があった記憶があるのですが、2021年5月1日の放送だったようです。
この頃はあちこちを歩くようになって偉人伝から解放されつつあったのですが、逆に世の中で賛美されている人に警戒心が強くなっていたので渋沢栄一氏についても斜に構えていたところがありました。それで、サラッと番組を見ただけでした。
今回の散歩の計画も最初備前渠を地図でたどっていたら「血洗島」というおどろおどろしい地名が目に入り、検索したところ渋沢栄一のゆかりの地だったことを知りました。
たしかに近くに渋沢栄一の生家と渋沢栄一記念館があり、そこをつなぐように青淵公園と川がありました。
*渋沢栄一記念館から青淵公園を歩いて生家へ*
コミュニテイバスは途中から一人になり、渋沢栄一記念館に到着しました。
平日の午前中でしたが、記念館内はけっこうな人が見学しています。
名前は知っているぐらいの人でしたが、明治時代の医療にも深い関係があることを知りました。「1907年 慈恵会顧問、1911年済生会顧問、1914年聖路加副会長、東京市養育院」とメモしていましたが、「病院という施設と看護」を中心に発達した近代医学もこうした方がいなければ根付くことはなかったかもしれませんね。
また、「埼玉学生誘掖会」で日本の林業や公園に大きな貢献をした本多静六氏とも出会っていたようです。
ここから渋沢栄一氏の生家までは、清水川沿いの青淵公園を歩いてみました。堤防のような道で公園側が一段低くなり、洪水のための調整池であることが書かれています。
美しくのんびりと歩ける道で、あっという間に1kmほど歩くと左手に「青淵(せいえん)由来跡」と書かれた大きな石碑のそばに池がありました。
池のそばの竹藪の向こうに生家があり、敷地に「血洗島の由来」がありました。
「血洗島」の由来
「血洗島」、誰もがこの地名に驚くことと思います。
江戸時代の文献には「血洗島村」という村の名前で見ることができますが、いつからこの場所がこう呼ばれるようになったかについては、はっきりしていません。
「〇〇島」という地名は深谷市内でも多く見られ、利根川の氾濫によって形成された自然堤防の上や、島のようにわずかに高まった土地の名前に付けられています。
肝心の「血洗」の由来ですが、荒地を示す「地荒れ」や、常に川の水に洗われる土地を表す「地洗れ」が変化したとも、アイヌ語で「下」「終」「端」を意味する「ケシ」が「下の外れの島」を意味する「ケセン」に変化したとも言われ、これに「血洗」の文字が当てられたとされる説があるようです。
渋沢栄一は、赤城の山霊が他の山霊と闘って片腕を怪我した際、その傷口をこの地で洗ったため「血洗島」という村名になったという伝説のひとつを語っています。
このように定説が無く諸説があり、その由来については、はっきりしたことがわかっていません。
古い大きな家に入ると、渋沢栄一のアンドロイドが語りかけてビデオを上映していました。
少しだけのつもりでしたが、ついつい惹き込まれて全てを観て生家をあとにしました。
*後の世の「先覚者」は何を見ていたのだろう*
いただいたパンフレットに、渋沢栄一氏がヨーロッパに派遣されたことが書かれていました。
慶応3年(1867年)、栄一は、パリ万国博覧会に招待され将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武の使節団に庶務・会計係として随行しました。
好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。
このヨーロッパを見聞きした経験が、渋沢栄一の人生を大きく変えたのです。
やはり渋沢栄一氏は明治時代に各地に出現した「先覚者」の一人だったと、生家を出る時には私のものの見方が変わりました。
こうした人たちはどんな時代を見ていたのでしょう。
当時の雰囲気を経験してみたいものです。
*おまけ*
それまで「資産家」「実業家」としての渋沢栄一氏という見方しかしていなかったのですが、改めてブラタモリの説明を読んで是非是非再放送をしてほしいものだと思いました。
「ブラタモリ#177」で訪れたのは埼玉県の深谷市。旅のお題「"近代日本の経済の父”はなぜ深谷で生まれた?」を探る▽大河ドラマ「青天を衝(つ)け」主人公・渋沢栄一と深谷との関係を掘り下げる▽渋沢のアンドロイド登場!彼の信念「みんなが豊かに」とは?▽藍やねぎの栽培に適した血洗島の「砂礫土」はどうできた?▽「青天を衝け」にも登場した貴重な版木を発見!▽深谷の発展のかげに浅間山?▽深谷のレンガと瓦の関係
(強調は引用者による)
今回「地図で見つけた血洗島」についても、すでにブラタモリで取り上げていました。ぼーっと観ていたようです。
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