存在する 35 自分の存在の証明が主体的でなくなった

わけのわからないタイトルですね。

 

自分を証明するために四つの本人確認方法があることを以前知りました。

運転免許書はそのうちの「身元確認」で、信頼できる機関が発行しているので日常的な自分の証明はこれ一つで済みました。

そして無くすことや失効することもなければ、私自身が「それを持っていること」で事足りました。

 

ところがマイナンバーカードになると、「持っている」だけではだめでそれを読み取る機械があって初めて有効になりますね。

 

その中に「実印のように重要な本人確認方法を詰め込んだカード」を日常的に持ち歩かなければならないだけでなく、それを読み取る機械が必要で、電気や通信インフラや読み取り機をつくる会社がなければ私自身を証明できないただのカードになってしまうのは、自分の主体性を奪われてしまったような感覚です。

 

 

*印鑑証明でさえ主体性が失われた*

 

マイナンバーに期待したのはそんなカードではなく、本人でもない印鑑が意味を持ったり、そこに存在していないのに本籍地を登録したり変更しなければならない実態のない制度をどうにかしてほしいというもっと根本的なことでした。

 

最近は印鑑を廃止するような雰囲気になり、サインだけですむ場面が増えました。

このまま日本の印鑑の文化と折り合いをつけながら、自筆のサインが本人の意思確認として有効になる社会に大きく変化するのだろうと期待していました。

 

さて、先日とある書類が全てデジタル作成になるというので、電子印鑑の登録をすることになりました。

今までのように何ヶ所も住所氏名を記入し印鑑を押す必要もなく、審査に通るとデジタル書類が保存用に戻ってくるという簡素な方法になりました。

ところが送信されてきた書類を見ると、なんだか三文判を大きくしたような印鑑が隅に押されて出来上がってきました。

 

今までであればその会社との書類のやり取りだけでしたし、手元にある私の印鑑を押していました。

ところが今度はその間に電子印鑑の会社が入り、しかも私が気に入っていた実印とは程遠いデザインの印鑑がデジタル上の書類に押されています。

デジタル化ってこういう無駄を無くすのではないかと思っていたのに、相変わらず「印鑑」を押すのですね。

なんだかなあ。

 

この電子印鑑はどういうしくみで信用になるのだろうと説明を読んでも、なんだかスッキリ理解できません。

何より手元にある実印を押すという主体性さえ奪われた、なんだか敵に武器を渡したような心許なさですね。

 

行政手続きにおける印鑑の廃止に前向きな姿勢を取っている。ハンコ文化に理解を示すと同時に、業務の効率化のためにはハンコは減らすべきではないか、と述べたことがある。2020年4月27日より、防衛省内部部局、統合幕僚監部、陸上幕僚監部、海上幕僚監部、防衛装備庁、防衛大学校は、内部決裁を全て電子決裁とし、省外からの書類に関しても印鑑証明が要らないものは印鑑を不要とした。印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う。

 

「印鑑証明に代わる証明については、総務省が検討中のシステムで行う」

そうだったのか、印鑑がなくなるというのはぬか喜びで別の方法にとって変えられることであり、それに登録しなければ自分の証明が成り立たないという主体性を放棄することだったのだと、遅まきながら気づいたのでした。

 

なんだかなあ、ですね。

 

 

 

 

 

 

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