20代の頃から、わずかのローマ字だけで表現できてしまう言語(英語)は、日本語とは違う何か合理的な発想があるのかと思っていました。
1990年代に入って数字を羅列するだけで商品やら値段を表示すすバーコードが身近になり、さらにインターネットとパソコンが生活の中に入ってきて数字だけで全体を把握して記憶されていく世界ができました。
90年代にパソコンを購入した時に操作の仕方がわからないと書店に行って取り扱い書を眺めたのですが、そばにプログラミング言語という本が並んでいました。私が知っていた「言語」とは全く違う世界で、1ページ目から読むのを挫折したのでした。
以来、専門用語がわからないからわかりやすさだけで判断するという生半可な使い方のままです。
当時は、コンピューターの開発に携わる人は神のようになんでも理解できる人だと思い込んでいたので、これからの時代はこうした人たちが世の中を作っていくのかと気がとおくなりました。
最近ではその分野では天才的な人でも他分野では頓珍漢なことを言うし、わかっていないことがわからないことが見えてきたり、知恵の樹の実を食べたいだけで真に何かを理解できることはなさそう、という人間の限界が見えてきたので、数字に置き換えるだけで全てを把握できることはないだろうなと思っています。
さらにあちこちを散歩するようになって、有名な武将の視点からの歴史はたくさん書き残されていても、農業の要であった水路の歴史はまだまだわからないことだらけのように、人間が知ることができるなんてほんの一部だと当たり前のことを実感しています。
すべてを理解できる神のような人はいないのだと。
最近、簡単に「ヒューマンエラー」とか「人間はミスをおかすもの」と簡単に言う政治家が増えて、本当にその意味を理解していないから簡単に言えるのだと確信しました。
どんなに対策をしても胃が痛くなる緊張感で仕事をしても、人の命が失われたり、自分のキャリアも吹き飛ぶ理不尽さが起こるし、世の中はそういう仕事で回っているからこそ「失敗」から学ぶことの道筋がようやく社会の中にできてきたのに。
そもそも人の生活とは何か。
それさえわかっていないのに言語化は無理ですし、わかっていないことを「デジタル化」で誤魔化しても意味がない。
「英語は合理的な発想につながるのか」、反対に「日本語は合理的ではないのか」「数字はどこまで表現できるのか」、今までぼちぼちと書いてきたことと結びついてきました。
「デジタル敗戦」とか「デジタル後進国」とか煽られてこのところ生活を右往左往させられているけれど、意図的にあるいは恣意的に何かを削られていかない限りは、人間の生活を完璧に把握できる方法はまずないだろうなと思えてきました。
関係がありそうな記事を頭の整理のためにメモしておきます。
<2012年>
英語で表現するとまるで何か新しいことを取り入れたかのように思わせられるが、何事も教科書通りにはいかない
「人の手」という社会支援のはずが、ドゥーラとカタカナで表現されると別のことになってしまう
<2013年>
アルファベット26文字で自分の名前を表現できる文化だけではない
文字だけでは呼ぶこともできず、正確に読むことが難しい名前の文化
<2014年>
<2015年>
<2016年>
サイモン&ガーファンクルの「絆」、感情は英語でも表現しにくい
<2017年>
ボブ・ディランの「風に吹かれて」は「鵺(ぬえ)のような社会」の意味だったのか
<2018年>
「同じ行動をとらなくても目的を達成できる」「興奮させない」言語と生活
<2020年>
<2021年>
<2022年>
<2023年>
「デジタル化についていけない人」と思われたくない風潮にしてレジ係の仕事まで客に転化するような
<2024年>
「生活のあれこれ」まとめはこちら。
マイナンバーとかマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら。