水のあれこれ 347 帷子川分水路

神奈川県内の川というと多摩川鶴見川境川相模川、酒匂川そして早川と思い浮かぶ大きな川がある中で、帷子川はさてどこだろうと思われるかもしれませんね。

 

久しぶりにこの川の名前を見ると、まず読み方を忘れていました。「かたびらがわ」で、二級河川でありながらこんな重要な場所に流れ込むのかと驚いたのが、2019年に横浜水道記念館を訪ね、日本初の水道道沿いに歩いたときでした。

西横浜駅のそばを線路に並行して流れ、横浜駅のそばで海に出ます。

小さな川ですが溢れたら河口周辺の横浜中心部が大変だろうな、という印象でした。

 

 

*「もともとは蛇行の激しい暴れ川」*

 

あの時にWikipediaの「帷子川」を読んでいたのですが、今回はあの時の上星川駅より一駅しか違わないのに西谷駅の周辺を歩いて「治水」の説明がよくわかりました。

 

もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、大戦以前は耕地の灌漑等を目的に利用されており、治水事業としては本格的な改修は行われていなかったが、水害を機に、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す約7.5kmにわたる地下分水路や、鶴ヶ峰付近の帷子川親水緑道などの親水公園、川辺公園などが造られた。

 

「水害を機に」、いつのどんな水害だったのか。脚注にリンクされている「帷子川水系の紹介」(神奈川県横浜川崎治水事務所)に書かれていました。

 

昭和20年代まで帷子川は、耕地のかんがい等を目的に利用されており、治水事業として、本格的な改修は行われていませんでした。帷子川は、昭和33年の台風22号で床上浸水2,851戸、床下浸水1,803戸の大きな被害を受けたことを契機に、堤防を高くしたり、川底を低くしたり、護岸の補強等を行うことによって、本格的な河川の改修工事を行ってきました。

「昭和33年の台風22号」とはあの狩野川(かのがわ)台風のことでした。

 

*帷子川分水路*

 

新幹線の高架橋から上流に250mほどにある水門と堰は「1982年度(昭和56年度)〜1996年度(平成8年度):地下トンネルと帷子川分水路が整備される」(Wikipedia)によるものだったようで、「帷子川水系の紹介」に詳細がありました。

 

抜本的な治水対策ー帷子川分水路ー

 

流域の急速な市街化に伴い、雨水の浸透量が低下し、短時間のうちに雨水が集中して河川に流出するようになり、沿川の住宅地や商店街等は幾度となく水害に見舞われました。

しかし、治水対策を講じていくために、川を拡幅することは、沿川の密集状況からも非常に困難です。そこで、河川の途中から新たな河道を掘削して、洪水の一部を直接海に放流する「分水路」を整備することになりました。

 

分水路の名称は帷子川分水路といい、横浜市との協調事業として建設し、平成9年に完成しました。

帷子川分水路のルートは、帷子川中流部の横浜市旭区白根一丁目から地下トンネルを経て、横浜駅北側の旧派新田間川を利用し、横浜港までです。

地上からトンネルまでの深さは、最深部で約60m、平均約30mとなっています。これは、トンネルが通る丘陵地帯の標高が30mから70mと高低差があるためです。

 

あの水門は、横浜駅近くまで続くトンネルだったようです。

それでも、2004年(平成16年)の台風22号では横浜駅西口駅付近で帷子川の水が溢れて周囲が浸水したようですから、治水の対策には終わりがないですね。

 

分水路の水が流れ込むWikipediaの新田間川(あらたまがわ)を読むと、その名の通り「江戸時代に新田の開発が行われた際に、石橋川とともに用水路として整備された」と書かれています。

興味が尽きないですね。

 

新田開発の用水路が現代では治水のための分水路に使われ、安全な市街地と安全な鉄道や交通網を守っているのですから、驚異的な変化にまた気が遠くなるのでした。

 

 

*おまけ*

 

帷子川の読み方はすぐ忘れてしまうのですが、初めてこの川沿いを歩いた日のことはイートインでの消費税が10%になった日だと思い出すのですから、恨みは根深いものですね。

それでもまだ政治家の世界のカラクリや闇がよく見えていない頃でした。

 

 

 

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