行間を読む 203 「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」

新幹線の車窓から見える森のすぐ向こうに神明台処分場があることを知らないまま通過していたことに、またやり残した宿題が溜まっていく気持ちです。

自分が生きてきた時代とは、あるいはその少し前の時代とはどんな時代だったのだろう、と。

 

広大な処分場跡地は芝生が広がったまるで遺跡のような場所でしたが、立ち入り禁止のようでした。

神明台処分地は、閉鎖された以降も最終処分場の「廃止の技術上の基準」を満たすまで、横浜市による管理が続く。基準を満たした跡地の一部(第二次埋め立てエリア:1976年3月〜1980年6月)は神明台スポーツ施設としての地域住民を中心に暫定開放されているが、敷地の大部分は技術上の基準を満たしていないため、跡地利用が進められないのが現状である。

Wikipedia、「泉区横浜市)」「現代」)

 

急激に人口が増え、ゴミが増えたその処理に半世紀も時が止まっているかのような場所を安全な場所にするために、日々管理してくださっているようです。

 

 

*「開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある」*

 

神明台処分場で検索したら、「月刊リサイクルデザイン 2015年6月号」(横浜市資源リサイクル事業協同組合)の「写真で見る横浜市ごみ回収の歴史」が公開されていました。

 

覚書のために書き写しておこうと思います。

明治維新以来、今日まで日本の経済は発展を続け、人々の生活は豊かになりました。進歩を続けてきた日本の近代化の中で、忘れてはいけないのがごみとの戦いです。生活が豊かになれば自ずと廃棄物も増えていきます。そこで今回は横浜市資源循環局のご協力をいただき、横浜市の清掃事業に関する資料を基に、ごみ回収に関する貴重な写真とごみ回収の歴史をご紹介します。

 

開港以来、横浜市の発展の歴史はゴミ処理と環境問題との戦いの歴史でもある

 

居留地の外国人から不衛生と訴えられる

 横浜が開港したのは、今から156年前の1859年(安政6年)のことです。外国人居留地が設けられ、邦人居留地と区分けされます。当時の日本人は衛生観念に乏しく、低地や湿地、沼地などにごみを投棄して不衛生でした。居留地に住む外国人は、自分たちへの影響を恐れ、各国の領事は奉行に改善を申し入れます。そこで、1862年に名主が回状を出し、清掃方法を細かく決め、罰則を決めました。各戸にごみ箱を設置し、回収を請け負った人たちが肩荷にして運搬したそうです。

 1868年(明治元年)当時の人口は2万8千人で、横浜ではごみ清掃、下水などの浚渫、道路や橋の清掃なども実施するようになりました。外国人居留地は政府が下水道の敷設、道路清掃などを行いましたが、風習の違いもあって、外国人による清掃対策も行われたそうです。当時は、街路、下水道などから毎日ごみを回収し、集められたごみは沖合に海中投棄していたそうです。

 

「ごみは沖合に海中投棄」

いやはや、「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」が改まるのにさらに一世紀はかかりましたね。

 

 

ごみ回収・処理が横浜市の義務となる

 明治22年(1889年)に横浜市に市制が施行されます。人口は11万6千人に増加していました。この頃はごみの回収は各戸が料金を払ってごみ運搬人を雇い、処理を行っていました。回収されたごみは依然として池沼などの埋め立てに利用していました。しかし、明治33年(1900年)に「汚物清掃法」が公布され、汚物の清掃、処理が横浜市に義務付けられます。これにより、ごみの収集・処理は横浜市の仕事となったのです。ただし、実際には民間に下請けされ、相変わらず池沼などの埋立という名目の投棄が続けられていました。

 その後、ごみの埋立投棄は消毒施設などもなく、衛生上よくないと問題化し、地元市民や市議会、行政による議論が繰り返され、最終的に焼却処分にするという結論が出ます。ところが、焼却の施設建設が反対運動などで進まず、消毒散布を行いながら、この後も長く埋立投棄を続けることになります。

 

埋立地不足に陥るが焼却施設が建設できない

 大正3年(1914年)に第1時世界大戦が勃発すると、経済が活況となり、ごみの排出量が増加しますが、一方でごみ処理を行う人員が転業してしまい、次第に人手不足に陥ってきます。そのため、大正6年(1917年)に横浜市内の衛生組合長179人を集めて塵芥処理協議会を開催しますが、民間事業者の人手不足は解消が容易ではないため、翌年からごみ処理は横浜市衛生課の直営とすることになりました。

 この頃は各戸に備えられたごみ箱から収集員がごみを収集して仮置場に集め、船で滝頭町地先などの海面埋立地に運搬し、処理していました。やがて、滝頭町地先海面埋立地の埋立が進み、次第にごみを処分する場所に余裕がなくなってきます。そこでごみの野天焼却に着手しますが、地域の反対ですぐに中止。当面は、千葉県下に輸送することで埋立処理量を大幅に減量したのです。

 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。ごみ収集・処理作業に従事していた作業員のほとんどが罹災し、運搬車も焼失したり行方不明になってしまいます。道路の破損、倒壊家屋の残材などのほか、市内のいたるところにごみが投棄されており、ごみの収集・処理は困難を極めました。それまで人力だった運搬車を牛に引かせることで作業効率が向上しましたが、滝頭町地先海面埋立地がいよいよ完成間近となり、今後の処分に窮してしまいます。この時、大地震によるがれきを埋立に利用して作られたのが山下公園です。

 当時のごみ排出量は、1日200トンほどありました。すでに東京や大阪、神戸、京都、名古屋などの大都市では焼却場を建設して、焼却処理を行なっていましたが、6大都市の中で唯一、横浜市だけは住民の反対運動によって焼却施設の建設が実現できませんでした。

 

焼却場建設により焼却処理が本格化

 昭和2年(1927年)、ようやく滝頭町地先海面埋立地に焼却場「滝頭じんかい処理所」の建設が始まり、昭和6年(1931年)に完成しました。焼却炉12台、1日250トンの処理が可能で、排熱で発電を行うための発電機も備えていました。翌年には鶴見区矢向町に「鶴見じんかい処理所」、保土ヶ谷区星川町に「星川じんかい処理所」が建設され、ごみの焼却処理が本格化します。

 昭和20年(1945年)に第2次世界大戦が終戦を迎えますが、市内の大部分は灰塵と化していました。横浜市の住民は、世帯数17万6千戸から4万9千戸に減っていました。ごみの収集、運搬、市街地の清掃が昭和21年から再開されますが、3か所あった焼却処理所は、すべて使用不能となっていたため、埋立処理するしかありませんでした。磯子区杉田町、神奈川区出田町、鶴見区上末吉町など6か所に埋立処分所が設置され、投棄されました。

 昭和28年(1953年)、壊れていた鶴見、星川の焼却処理所が復旧し、再稼働します。さらに、人口増加によってごみ量が増加したため、新たに焼却処理場を新設し、全部で6か所の処理場体制となります。

 この頃のごみ回収は6日に1回で、ごみ箱から手車(籠車)やオート三輪で収集し、トラックに積み替えて埋立処分地や焼却処理所に運んでいました。昭和35年(1960年)になると、清潔な街づくりをめざし、街路からごみ箱をなくしてごみ集積場所を設置するようになります。週2~3回の回収を行う定時制収集方式となり、同時に、ふた付きの容器を使用するようになりました。

 

私の幼児の頃の東京のごみの記憶までの歴史ですね。1960年代、転勤先の地方では生ごみを森に捨てていました。

 

ごみ戦争で意識が高まりリサイクル活動へと進展

 昭和40年代になると高度成長期に入ります。物資が豊かになると同時に大量消費時代となり、家電や家具などを含む多様な廃棄物が増加し、廃棄物の不法投棄が問題化しました。昭和45年(1970年)に「廃棄物処理法」が公布されましたが、不法投棄は後を絶ちませんでした。やがて、さらなる人口増加と経済発展により、廃棄物の多様化と増大化が進み、行政の対応が追いついかなくなります。いわゆる「ごみ戦争」の始まりです。

 昭和48年(1973年)にオイルショックが起こり、各家庭が古紙をちり紙交換に出すようになり、ごみ中の古紙混入率が減少しますが、一方でごみの多様化が進み、プラスチック類の高熱による焼却炉の損傷と塩化ビニールによる有毒ガスの発生が公害として問題となります。

 ごみ戦争、公害問題を通じて、市民の環境意識が高まり、この頃からごみの減量化の促進、リサイクルシステムの確立に取り組むようになります。横浜市は、昭和53年(1978年)に「私たちの町は私たちの手できれいに」を目標に町の美化・浄化運動を展開。翌年には「さわやか運動」として、ごみ収集日に合わせた地域清掃活動やごみ集積場所の美化促進などを推進していきます。

 こうして町の美化、ごみの減量、資源リサイクルは、市民活動として定着。その後の横浜G30プラン、ヨコハマ3R夢(スリム)プランの成功、資源集団回収による古紙回収100%達成へと続き、現在に至るのです。

 

まさにごみ処理の方法が驚異的に変化する時代を目の当たりにして生きてきたのだと、添付されていた写真に子どものころの記憶が重なりました。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

ごみについてのまとめはこちら