米のあれこれ 88 犬上川両岸の田んぼ

地図で見つけた大門池から犬上川を渡って三川分水公園まで歩きましたが、途中で見つけた用水路の歴史が書かれた石碑からあれこれ検索していたら右岸と左岸の水田地帯のそれぞれの歴史が見えてきました。

 

新幹線で通過する時にはあっという間に小さな犬上川を越えるので、同じ田んぼの風景に見えていました。

 

 

*犬上川右岸の大門池とニノ井堰*

 

「大門池」で検索すると、滋賀県の「近江水の宝」に「大門池と敏満寺(びんまんじ)」という記事がありました。

あの名神高速道路沿いの蛇行した道にある、美しく落ち着いた街です。

 

 大門池は琵琶湖東部の犬上郡多賀町敏満寺に存在する。敏満寺の地名は中世を通じて当地に繁栄した寺名に由来し、大門池の名称もこの寺の大門近くに位置したことによるといわれているが、本来は「水沼池」と呼ばれていた。すなわち、天平勝宝3(751)年の東大寺近江国開田図(正倉院文書)には現在の大門池の位置に水沼池が描かれている。「水沼」の音の転化に伴って「弥満」あるいは「敏満」と用字も変化したらしい。

 大門池こそ水沼池であり、奈良時代に作られて以降、都合1260年以上もの長きに渡って、当地の人々と共に歴史を刻んできたことが知られる。

 

行基さんが亡くなった頃にはすでにあったため池だったようです。

あの狭山池をはじめ「ため池やかんがいの水路を整備する地溝開発を古代国家が積極的におし進めた時代」にこのあたりの水田地帯もできたようです。

 

「大門池と敏満寺」にニノ井について書かれていました。

 大門池とニノ井

 敏満寺付近は主として犬上川から取水するニノ井によって田用水をまかなってきた。猿木・多賀大尼子・敏満寺をニノ井郷と呼ぶほどだが、一方で犬上川の水争いは熾烈を極めたことで知られる。昭和7年(1932年)夏には、一ノ井(犬上郡甲良町金屋)付近の両岸に総勢400余人が結集して対峙し、これを230人の警察官が鎮圧するという犬上川騒動が勃発している。当該箇所の犬上川には一ノ井から四ノ井の井堰が集中し、歴史的に見ると、こうした犬上川騒動と同然の争論が頻発していたことが知られる。

 

あの美しい犬上川の水面を眺めながらのんびり歩いたあたりは、水争いの地域だったとは。

 

 

*犬上川左岸、甲良町の一ノ井堰*

 

金屋地区にあった案内図で見つけた「一ノ井幹線水路」を検索していたら、滋賀県文化財保護協会の「新近江名所図会」という記事を見つけました。

 

扇状地の宿命か!?  水不足と戦ったひとびとの足跡「一ノ井堰之碑」 甲良町

 

滋賀県は、豊かな水源に恵まれ、発展の途を歩んできました。その中心となるのはもちろん琵琶湖ですが、昨今では湖に注ぐ河川とそれを巡る街並みの美しさが評価された自治体もあります。

滋賀県の湖東地域に所在する甲良町は、「心かよい 人がきらめく せせらぎ遊園のまち」として「日本水の郷百選」に選ばれました。町の北部には、鈴鹿山脈を水源とする犬上川が横断しており、町の多くがその扇状地に立地しています。「水の郷」といわれるとおりに、甲良の町なかにはいたるところに水路が流れており、その美しいせせらぎが創り出す警官は、訪れる人たちに癒しと郷愁の感を与えてくれます。そんな甲良の町から少し外れてみます。犬上川に沿って、その上流に向かって進んでいくと、今は草木に覆われた川岸にひとつの大きな石碑をみることができます。そこには「一ノ堰之碑」と書かれてます。これこそが、扇状地という大自然に立ち向かった甲良の人たちの戦いの痕跡なのです。

 

右岸側で見つけた「ニノ井堰」の石碑に対して、左岸側には「一ノ井堰之碑」があるようです。

 

ここ甲良町は、いままでこそさまざまな整備事業によって美しい水の郷として知られることとなりましたが、かつては絶えず水不足に悩まされた土地でした。それは扇状地という地形上に立地することに大きく関わっています。扇状地では、地下水脈が地面よりかなり低いところを流れています。

そのため水を得ることが非常に困難な地形でした。そしてその開発には高度な技術が必要だったのです。甲良町域では、小川原遺跡などの縄文文化時代の遺跡や、弥生時代の遺跡が点在しています。また古墳時代では、発掘調査により多数の埋没古墳が確認され、その数は県内随一ともいわれています。ところが、本格的に生活の営みが広がるのは飛鳥時代以降なのです。つまり、縄文時代から古墳時代にかけては、単発的な居住や墓域としての利用はなされていましたが、安定的な利用に至ったのは、扇状地における生活用水の確保が技術的に可能となった飛鳥時代以降だったのでしょう。平成29年4月に当協会で甲良町内の法養寺遺跡・横関遺跡の発掘調査を実施しました。調査では奈良時代まで機能していた溝を発見しました。その溝は、幅5m近くに達する大規模なものです。これこそ古代の人々が生きるために扇状地を開発した技術と労力の結晶だったのでしょう。その結果、人々はようやく安定した生活を営むことができたと考えられます。そしてその後、戦国武将の尼子氏や藤堂高虎といった歴史上の著名人を数多く輩出することになるのです。

 

では、古代以降は水不足に全く悩まされずに人々は暮らすことができたのでしょうか?実はその悩みはほんの最近まで続いていたのです。ここ甲良町域の名産はお米です。かつては江戸幕府から絶賛されるほど良質な米が採れることで知られ、現在でもあたり一面に水田地帯が広がっています。そして、かつての犬上川では一ノ井、ニノ井という堰が設けられ、そこから必要な農業用水を得ていました。しかし河川における水の保持性が低かったことなどから、広大な水田に行き渡るための十分な水量がなかったそうです。そしてそこに流れるわずかな水を巡って、犬上川左岸・右岸の人たちの間でたびたび争いが起こってしまいました。

そして昭和7年7月に起こった大干ばつの際には、石合戦や竹槍による争いにまで発展し、警官二百余名が出動する大事件へと発展することになります。これを「犬上川騒動」といいます。この事件を契機に、事態を重くみた滋賀県がこの地域の水利開発の乗り出すことになります。下流には一ノ井・ニノ井の合同堰が設けられ、上流には日本最古の農業用コンクリートダムである犬上川ダムが建設されました。永い時を経て、ようやく甲良の人々は水の悩みから解放されたのです。扇状地という大自然の力に人の技術が勝った瞬間です。

 

 

新幹線の車窓から見える広々とした水田地帯は、犬上川の扇状地で水を得にくい場所であったこと、犬上川の右岸は犬上郡多賀町、左岸は犬上郡甲良町でそれぞれの全く違った歴史があるようです。

 

春は麦の穂、秋は稲穂が広がる風景は、人類の歴史で見ればごく近年に実現した夢のような風景だったのだと改めて思いました。

 

 

 

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