ホテルを8時過ぎにチェックアウトし、まずは窓から見えた小高い場所を目指しました。
どこまでも平らで、2列の水路がまだ残っている八間通りには花や木々が植えられていました。
かつては狭い家々や田畑だったであろう地域が、ゆったりと一軒家の「瀟洒な住宅地」になっています。
昨夜は19時過ぎには森閑としていた街でしたが、通勤の車が南側の工業地帯へと連なり、どの車もとても立派でしかもひとりが1台での通勤風景です。
工業化の時代というのは、豊かになったようでローンなしでは成り立たない生活に急激に変化した時代でした。
*亀島と南部用水の水門へ*
小さな山、かつては島だった場所を目指して細い路地に入ると、小さな水路沿いに古い家々が残っています。蔵のような建物から良い香りが漂ってくると思ったらうどん屋さんでした。
山すそに沿った道にかつての倉敷の家並みが一部残っていて、その先に美しい水面と亀島新水門が見えてきました。
あの酒津樋門から分かれた南部用水で、水門の先で連島(つらしま)の西側を流れてきた西岸用水と合流して高梁川へと流れ込むようです。
2018年に初めて東西用水酒津樋門を訪ねた時に2本の並行する水路のそばを歩きました。その水がはるばるここまでくるようです。
水面に五月晴れの空が映っています。
吉備の穴海の時代から島と島がつながり用水路が造られ、そして工業地帯へ。
その間もずっと変わらない空がある。
なんだかまた目眩のような感覚になって山すそへと戻ると、お地蔵さんたちが水辺の方に向かって並んでいました。
南へとまた路地を歩くと、亀島大明神への石段がありました。鬱蒼とした森です。
亀島を貫いている県道398号線の向こうもにも森が続いています。
県道の下の亀山東隧道を通って工業地帯へと向かいましたが、山すその路地沿いには石積みで嵩上げされた小さな畑があります。
静かで誰もいない道を歩いていたら、ふと何か動く気配があって驚きました。畑で作業をされていた方でした。
収穫したてのネギの香りが漂っています。
左手は木壁と白壁の、祖父母の集落を思い出すような家が立ち並んでいました。
300メートルほど先は工業地帯ですがその気配も感じられない場所で、今いつの時代のどこを歩いているのか一瞬混乱しました。
*亀島の地下工場*
半世紀以上前の倉敷の雰囲気がある場所が忽然と終わり、交通量の多い県道428号線に出ました。
工場群がその先に見えて、だだっ広い空き地や工場の敷地へと風景が変わりましたが、真っ青な青空は変わりません。
工場はすぐそばに見えているのに、まっすぐな道というのはなかなか遠く感じるものです。
とぼとぼと歩いていると、亀島の終わるあたりに何か公園のような場所があって立ち寄ってみました。
「子どもらに残そう 未来への遺産 亀島山地下工場 市民に公開を!」という説明板がありました。
亀島山の地下に全長約2000メートルのトンネルが現存します。アジア・太平洋戦争中に建設された三菱重工業水島航空機製作所は、中型の一式陸上攻撃機と戦闘機・紫電改を作りました。1945年4月以降、空襲を避けるため、工場を分散疎開させました。その一つが亀山地下工場で、岡山県内最大級の戦争遺跡です。東西5本の主トンネルと南北28本の連結トンネルがあります。
南側の主トンネル(1号)が最も大きく完成度が高く、幅約7m、高さ約4m、長さ約160mもあります。北側のトンネルほど狭く未完成です。
内部には工作機械の据付跡や板張り天井の支柱の穴、発破用のロッド穴やトロッコの枕木跡など、多くの遺構・遺物がみられます。
南側のトンネルでは、日本人の若い工員や動員学徒らが部品を製造し、北側のトンネルでは、主に朝鮮人労働者が発破をかけ掘削。拡張工事をするという、戦争末期の緊迫した状況を伝えています。
戦争の時代をリアルに留める亀島山地下工場は、平和教育・歴史教育の場として大切な文化財です。この未来への遺産を子どもたちに伝えましょう。
ホテルの窓から亀島を眺めていた時には干拓の歴史と工業化の歴史そして災害の歴史を考えていたのですが、鬱蒼とした森の下には戦争の歴史もあったのでした。
そこにあるものをなかったことにはせずに、混沌とした時代の葛藤を考え続けることで将来への遺産が築かれていく、ふとそんなことを思いつきました。
時間はとてもかかりますけれど、ね。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
工業地帯についてのまとめはこちら。