亀山を過ぎると目の前は工業地帯で、東西へと流れを変えた2列の水路沿いに国道430号線が通っています。
水島港を目指して歩き始めましたが、まっすぐな交通量の多い道路はわずか400mほどが果てしなく遠く感じますね。
水島臨海鉄道の高架橋の下を抜けると、ビルの間に港と船が見えました。地図ではそれほど大きな港には見えなかったのですが、工業地帯の中の港はなんだか迫力があります。
「国際拠点港湾 水島港」と大きく表示版があり、ずっと沖合まで真っ青な空に白い雲の美しい空でした。
植え込みに小さな説明がありました。
水島の工業化は、第二次世界大戦中の1943年に三菱重工業の航空機製作所が操業を開始したことにはじまります。戦後、岡山県は1953年から、大きい船が入れるよう港の改修に着手し、海底を浚渫した土砂を使って工業用地を造成していきました。そこに石油関連企業や製鉄所などが誘致され、コンビナートが形成されました。現在は約2500haの用地に218の事業所が立地しています(2019年、工業統計調査)。24時間操業していることから夜景も有名で、「日本夜景遺産」や「夜景100選」に選ばれています。
吉備の穴海を干拓するための土はどこからきたのでしょう、そしてその干拓地を浚渫してできた土が工業用地へと使われる。
地面ひとつとっても知らないことばかりです。
*中畝地区から東塚へ*
国道430号線の北側の道に入ってみました。
まっすぐ道が続き、水路や古い倉敷らしい家も見えます。車も通らないので、耳元の風の音だけの静寂の中を東へと歩きました。南側の工業地帯との間を遮るものもなく、その間に少しずつ田畑があります。時々、少しだけ道が曲がっている場所もあります。
どんな理由で曲がっているのでしょう。
同じまっすぐな道でも、水路や田んぼのある道は楽しいものです。
水を張って田植えの準備が始まった田んぼもありました。あの水は東西用水酒津樋門からくる水ですね。
大きな空をさえぎるものもないので真っ青な5月の空が広がっています。
公害の時代をこの地域の方々はどうやって乗り越えてこられたのでしょうか。
少しずつ工業地帯との距離が離れ、その間に田畑や住宅地が増えました。
ここにもところどころ倉敷らしい家が残っています。
まっすぐの道でしたが、突然、蔵が張り出している場所がありました。道路拡張工事のための区画整理でもがんとして譲らなかったのでしょうか。立派な蔵です。
さらに東へと歩くと、福田小学校に突き当たりました。
小学校の前に幹線水路が流れています。
小学校の北側の道へと入ると、それまでの風景とも違う集落と田んぼがありました。なぜそう感じたのか、しばらく眺めていてわかりました。
家々のすぐ北側にまるで森が続いているように見えるからかもしれません。地図では県道428号線の緑地帯です。
かつては海だった干拓地に、時を経て森ができる。
そんな風景でした。
*由加神社へ*
かつては水路だったのではないかと思う2本の道路にはさまれた細長い住宅地もありました。
家と家の間には小さな家庭菜園があります。いつ頃の住宅地でしょう。
その細長い住宅地が終わるあたりの少し嵩上げしたような場所に、黒い板壁の由加神社が見えました。
そばに水路があるので水の神様でしょうか、それともあの小倉の瑜伽神社のように漁民と旅人の神様でしょうか。
御由緒は見つからなかったのですが、そばに小さな石碑がありました。
徳永 林太郎翁
翁 参道が出来上がりました。雨の日も、風の日も我が由加神社の清掃・管理をしていただき、本当にありがとうございました。
ありし日の姿が目に浮かびます。
いつまでも我が郷土を見守っていてください。ありがとう
平成12年7月吉日 東塚町内会
四半世紀前にできた参道は、この日もきれいに掃き清められていました。
児島の由加山にある神社だそうです。
由加山は太古より磐座信仰が行われていたとされる。天平5年(733年)行基によりこの地に十一面観音が祀られ、神社仏閣が一体となった瑜伽大権現(由加大権現)と呼ばれる神仏習合の山となったという。
(「由加神社本宮」「概要」)
水島臨海工業地帯との境界にある田んぼを歩いたら、思わぬところで行基さんと出会いました。
行基さんが来られた頃は、まだ吉備の穴海の小島と小島を舟で信仰もまた行き来していたことでしょう。
美しい水田地帯でした。
いつかまた、田植えの頃や稲穂が実る頃に歩いてみたいものです。
「米のあれこれ」まとめはこちら。
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