助産師と自然療法そして「お手当て」 35 <整体の歴史と出産の医療化 2>

整体が妊娠・出産・育児の中で代替療法として残っている理由のひとつとして、「妊娠・出産は病気ではない」という認識が社会の中に根強く残っていることもあるのではないかと思います。


前回の記事で、野口晴哉氏が15歳で整体の療術団体を始めた1926(昭和元)年頃から戦後にかけて、出産の変遷をあわせて考えてみてみました。


「我が国の妊娠・分娩の危険性は?」(pdf注意)のグラフを見ても、1955(昭和30)年の妊産婦死亡は出生10万に対して178.8人とあります。
おそらく、身近で出産で亡くなったり障害を負ったお母さんや赤ちゃんの存在というのは、現在の私たちには想像ができないほどよくある話だったのではないかと思います。


それなのに、なぜ「妊娠・出産は病気ではない」という認識のほうが社会に根強くあるのでしょうか?


ひとつには、出産ぎりぎりまで働く必要があり、また産後もできるだけ早く働き始める必要がある労働力として見なされていたことがあるのではないかと思います。


休息も食事も不十分で、不衛生な中で妊娠・出産・産後を過ごしていた時代の近代産婆の保健指導の大変さ、そしてそれが戦後まで続いていた様子はこのあたりから書きました。


そしてもうひとつには、妊娠・出産に関する費用に対する社会的な制度の限界から、「妊娠・出産は病気ではない」と思うしかかなったということもあるのではないかと思います。


<健康保険制度と出産手当金>


現在の日本では、母体保護と出生した子供を守るために分娩に関するお金を心配しなくてすむような制度ができています。


多くの方は、健康保険の「出産育児一時金」あるいは「家族出産育児一時金」によって、43万円の給付を受けられるようになっています。
また経済的困窮などで健康保険に加入できなかった場合には、入院助産制度があり、お金がなくても医療機関で安全な出産ができるようになっています。


この出産手当金はいつ頃からできた制度なのでしょうか?


「女性学年報 第32号」(日本女性学研究会女性学年報編集委員会、2011年)の木村尚子氏の論文、「戦間期における産婆団体の自立と揺らぎー東京府産婆会内外の攻防を中心にー」の中に参考になる箇所がありました。


1922(大11)年に健康保険法が成立し、1927(昭和2)年から疾病、負傷、死亡そして分娩に対して給付が始ましました。


この分娩に対する給付に関し、日本医師会は1926(昭和元)年には政府と健康保険法に基づく診療契約を締結したのに対して、当時の産婆には医師会のような全国組織もないために医師と同じような契約の締結は認められなかったようです。


1927(昭和2)年に大日本産婆会が設立され、医師会に遅れること6年、東京府産婆会がこの健康保険の分娩給付の制度に参入していった様子が論文で書かれています。
この健康保険の分娩給付を受ける出産を請け負う場合には「保険産婆」として申請・登録が求められたようです。


ただ「日本の皆保険制度の変遷、成果と課題」によれば、「(健康保険)導入直後の日本の社会保険制度は労働者(ブルーカラー層)だけを対象としており、1927年当時、労働者は日本の全人口の3%にすぎなかった」とあります。


ですから、健康保険による出産手当の給付もまだまだごく一部の出産のみが対象であったことでしょう。


上記の文献では、健康保険の広がりについて以下のように説明しています。

 1922年から1945年の第1期には、陸軍が医療保険の適用拡大を推進した。これは1930年代に中国との戦争が激化する中で徴兵された若者の健康状態に関心があったからである。また、出産適齢期の女性にも適用拡大された。1934年には被用者保険の対象はフルタイム労働者を5人以上抱える事業所に拡大され、1939年にはホワイトカラーの勤労者とその不要家族にも拡大された。この間、多くの市町村で国民健康保険が施行された。図1からも見てとれるとおり、第一期のピークであった1943年には国民の7割が医療保険に加入し、政府の医療保険の拡大も順調に進んでいった。


富国強兵政策が若者や出産適齢期の女性の健康保険加入を促進させたということは皮肉なものだと感じますが、何はともあれ、徐々に健康保険による出産手当という制度が社会に根付いていきます。


ただし、健康保険の疾病・負傷という診療報酬とは別の出産手当金ですから、あくまでも「妊娠・出産は病気ではない」という建前が必要であるとも言えるのでしょう。


<健康保険と「出産の医療化」>


冒頭で紹介した国立成育医療センター、久保田隆彦先生の「我が国の妊娠・分娩の危険性は?」の4ページ目に「我が国の分娩場所の推移」というグラフがあります。


1955(昭和30)年には、助産所も含めた医療機関での分娩は20%にも満たないのですが、その後医療機関での出産は急増しわずか5年後の1960(昭和35)年には半数が医療機関で出産しています。


現在でもまだ「妊娠・出産は病気ではない」ということが聞かれるのに、当時人々はなぜ急に医療機関での出産を選択するようになったのでしょうか?


この背景には、この健康保険による出産手当の給付があるのではないでしょうか。
先に紹介したように、「1943年には国民の7割が医療保険に加入し」、そして1961(昭和36)年には国民皆保険制度で「ほぼ全員に保険制度が適用されることになった」とあります。


より安全に、助産所を含む医療機関での出産を望んでも経済的に無理であった人たちが、医療の中で出産できるようになった時代背景があるといえるでしょう。


健康保険制度が長い年月と多くの方々の苦労の積み重ねの結晶であると思うと同時に、出産を傷病とは別にしてしまったことで、「妊娠・出産は病気ではない」という建前を言い続けなくてはならなくなってしまったように私は思えてなりません。


もし、いえもちろん歴史に「もし」を言ってもしかたがないのですが、妊娠・出産はいつ何が起きるかわからない状態であり医療の中で管理したほうが良い、という認識をあの時代に社会に根付かせることができたら、今ほど、妊娠・出産に代替療法が入り込む余地を残さなくて済んだのではないかと思うのです。


ということで、医療としては認められなかった整体が妊娠・出産ではまだ活躍できる場が残された時代には、健康保険制度もひとつの鍵があるのかもしれません。



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助産師と自然療法そして「お手当て」 34 <整体の歴史と出産の医療化 1>

野口晴哉(はるちか)氏の講演をもとにした「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年)を参考に、整体の中での妊娠・出産・育児の考え方について一部を紹介してきました。


その本が出版された1978(昭和53)年頃までは、「誕生前後の生活」が書かれた時代1その2で書いたように、医学の進歩ともに医療従事者の資格もまた大きく変化した時代背景がありました。


1978年頃というと私自身が看護学生になった頃で、今思うと当時の医療のレベルは現在に比べるとすでに「大昔」のレベルに感じるほどの変化があります。
それでも当時は病院実習に行くと、最先端の医療を学んでいるという実感がありました。


1960年代生まれの私でさえすでに医療が格段に進歩した時代の記憶しかなく、自分が生まれた頃やそれ以前の時代に、人々にとって医療とはどのようなものであったのか想像するのも難しいものです。


まして、現在、妊娠・出産・育児にご自身が向き合う年齢層の方たちにとって、1950年代ごろからの生活と医療の変化を想像する機会もないのではないかと思いますし、案外、近い歴史というものは全容を知ろうとすることは難しいのではないかと思います。



私の手元にある「誕生前後の生活」は2004(平成16)年に出版されたものですが、今までの記事で紹介してきたように、医学的にはすでに否定されていることなどが繰り返し繰り返し出版される背景には、案外、こうした近い歴史を人は知らないので「現代の医療ではわからない何かすごいこと」が書いてあるかのように認識しやすいのかもしれません。


今回から3回ぐらいに分けて、出産の医療化と整体の歴史を考えてみようと思います。


<「出産の医療化」と整体>


野口晴哉氏が生きた時代というのは、まさに「出産の医療化」の時代でした。


1911(明治44)年に生まれ、1926(昭和元)年に15歳という若さで愉気と活元運動を主体にした療術団体を設立したようです。


その同じ頃の出産の風景を、「出産と医療、昭和初期まで」で紹介しました。
引用した文献は信州の農村ですが、野口晴哉氏の住んでいた都内でも基本的には家庭分娩の時代ですから産婆や医師を頼むのは限られた人たちであったことでしょう。


この時代であれば、出産に立ち会った経験がある人、出産に関して見聞きした知識がある身近な人の方が、高額な報酬を必要とする産婆や医師よりも尊重されていた様子がわかります。


おそらく野口晴哉氏もそのような存在として、相談役としての立場と経験を積んでいたのではないかと思います。


そして戦後になり、まず医療とはなにか、医療と代替療法の違いは何か、そして医療を担う資格とはなにか明確する動きがありました。
それが「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師に関する法」で、医療類似行為を1948(昭和22)年に法律で明確にしたことはこちらの記事で書きました。


そして1948(昭和22)年に整体操法協会を設立。
「この頃から病を治すことよりも人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を『体育』と位置づけ、『治療』を捨てることを決意」し、1931(昭和56)年に社団法人整体協会を設立しています。


「あはき法」で医療類似行為として国家資格を与えられた鍼灸も当時はその医学的効果の科学的な検証が不十分であるとして議論があったようですから、ただ手を当てる整体は医療としては当然認められず、「治療を捨てることを決意」と言わざるをえなかったのではないでしょうか。


この同じ時代の出産の様子をこちらの記事では終戦後の離島での出産の医療化について、またこちらの記事では同じ頃の都市部の出産の様子について紹介しました。


いずれにしても、全ての出産に教育を受けた助産婦が立ち会えるほど助産婦もいませんでしたから、まだまだトリアゲババや家族の手によって出産が行われていた時代です。
徐々に、専門教育を受けた助産婦に分娩介助をすることで安全性が高まることが社会に認められ始めた時代とも言えるでしょう。


それまで家庭に赴いていた助産婦も請け負う分娩が増加するのに対応するには、自分のところに産婦さんが来てもらうようにする必要があります。
そこで1948(昭和23)に医療法で有床助産所開設が認められ1950年代に初めて助産所ができたこと、そしてその盛衰についてはこちらの記事に書きました。


それでも、まだ野口晴哉氏のような無資格者が妊娠・出産の相談役として活躍できる場が多かったのではないかと思います。


妊娠・出産は病気ではないから。


医療とは認められず「治療を捨てた」整体にとっても、「出産は病気ではないから」と世の中の人が受け止めている時代には、まだ「人間本来の力を引き出す」何かとして活動する余地が残されていたといえるのかもしれません。


次回は、その「妊娠・出産は病気ではないから」というところに焦点をあてて考えてみようと思います。




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助産師と自然療法そして「お手当て」 33 <新生児・乳児への整体>

整体とはどのような手技なのか検索していくと、整体院のHPには「うちではボキボキしたり痛いことはしません」「マッサージとも違います」といったことがよく書かれています。


では整体とはどのような手技なのでしょうか?
特に新生児や乳児に対して、何をおこなっているのでしょうか?


<マッサージの定義>


たしかに揉んだりさすったりなどの行為は、「マッサージ」として法的資格を有する者のみに許された医療類似行為になります。
wikipediaからの引用ですが、「厚労省見解のマッサージの定義」を紹介します。

法第一条に規定するあん摩とは、人体についての病的状態の除去又は疲労の回復という生理的効果の実現を目的として行われ、かつ、その効果を生ずることが可能な、もむ、おす、たたく、摩擦するなどの行為の総称である。
   昭和38年1月2日医発第8-2号

その後、さまざまな民間療法が林立する中で、2003(平成15)年に「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する疑義紹介について(回答)」が厚労省から出されています。

同条のあん摩マッサージ指圧が行われていない施術において「マッサージ」と広告することは、あん摩マッサージ指圧師でなければ行えない。
あん摩マッサージ指圧が行われていると一般人が誤読するおそれがあり、公衆衛生上も看過できないものであるので、このような広告を行わないよう指導されたい。

つまり、もむ、おす、たたく摩擦するなど人体に力をかける行為は、医療類似行為の中でも、あん摩マッサージ指圧師のみに「マッサージ」と称して業とすることが許されたものであるということのようです。



では、整体とはそのような物理的な刺激もなく効果を得られる何かなのでしょうか?


また、最近は民間資格の「○○式マッサージ」とかありますが、あれは法的にどうなのでしょうか?


そして「ベビーマッサージ」という名称は、法的にどうなのでしょうか?


そんな疑問がいろいろ出てきますが、まずは野口整体の新生児・乳児に対する考え方を、「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)から見てみようと思います。


<「子供を丈夫に育てるための整体法」>


「子供を丈夫に育てるための整体法は?」という質問に、野口晴哉(はるちか)氏は以下のように答えています。長くなりますが、全文引用します。

 へその緒を切るのは遅いほうがいい。胎脂を洗い落とすのも遅い方がいい。つまり出来るだけ自然の状態にしておくことで、保護が完璧に行われるということなのです。お産婆さんが間に合ってサッとへその緒を切ってしまったという子供や、体を丁寧に洗ってしまったという子供が弱いのは、偶然ではないと思うのです。お腹の中にいるうちから愉気をしていても、そういう処置を考えておきませんと考えているような丈夫な状態にはならないことがあります。子供を育てるのは、肉の塊りを大きくすることではないのです。成長する力、生活する力を強くすることが育てるということで、過剰な保護を加えて調節するようなことをやれば、生活する力は弱くなります。子供自身の力で生きていけるように、できるだけ近づけなくてはならない。そういう意味で胎脂をとらない。へその緒を切るのも遅くする。着物も余り厚着をさせない。子供に不安を与えることのないように注意する。病気をさせない用心ではなくて、強く育てようとする用心、病気になったら自分の力で経過するようにする用心が育児の大事な問題だと思うのです。(続く)

たしかに近年では「胎脂をすぐにとらない」方法が取り入れられていますが、産湯ですぐに洗い流したとしても子供を弱くするほどの影響力はないものといえます。


どちらかというと、「誕生前後の生活」が書かれた時代背景のように、それまで妊娠・出産・育児のよろず相談役として活躍していた野口氏が、有資格者の助産婦に取って代わられたことがこのような文章の背景にあるのではないかと推察しています。


さて、「できるだけ自然な状態にしておく」ことが大事だとしているのですが、整体法では胎児に愉気をし、新生児にも愉気をしています。

(先の引用文に続く)そのための整体指導の方法としては、胎児の間は愉気をしますが、生まれてからも愉気をします。生まれたとき、母乳をやる前に掃除活点に愉気をするというのがその急処です。お乳の吸いの弱いような場合、飲みかけて寝てしまうとか、うまく吸えないような場合には、後頭部に愉気をします。眠りが浅い場合も同じです。後頭部は咀嚼変化の中枢、血行、呼吸の中枢で、これに愉気をすると深く眠るようになり、お乳を吸う力も強くなります。だから、仮死の状態で生まれた子供とか、早く生まれた子供には、後頭部に徹底的に愉気をすると丈夫になります。

愉気というのは手を当てる、あるいは軽くトンと叩くということのようです。


1970年代初頭でも小児科医にとっては胎児はブラックボックスの時代だったわけなので、たとえ気休めでも手を当てて、結果として元気に生まれてくれば感謝もされていたのではないかと思います。


愉気は何にでも効く?>


野口晴哉氏は、生後十三ヶ月は保護期間であるとして以下のように書いています。

十三ヶ月の間は積極的にその子供の持っている力を、自然に沿って育てるように努力する。それを越したら、子供の中にある自然の力をできるだけ強く発揮するようにするのです。病気をやってもいいのです。熱が出れば遺伝的な梅毒もなくなるし、淋病をなくなるのです。持っている遺伝的な素質がどんどん改善されるのです。

子供の愉気は後頭部とお腹で、下腹で自然に呼吸が出来るようになればいいのです。大人になっても後頭部とお腹の愉気でいいいのです。

愉気は薬や灸や鍼のように、外部からの刺激ではない。総て刺激するものは体が適応してしまうので、一度で効いたものは二度、更に三度しなくては効かなくなるというように増えていきます。細い針もだんだん太くしないと効かなくなります。愉気や活元運動にはそれがない。やればやるほど敏感になり、お腹の中にいる頃に愉気した子供たちほど愉気がよく聞きます。これは特異な現象で、愉気が自然の整体法だと思うのはそういうためです。

「一分子も含まれていないほど希釈し、希釈すればするほど効果がある」と主張するホメオパシーに通じるような荒唐無稽な話のような印象です。


また、「熱が出れば遺伝的な梅毒もなくなるし・・・」については当時の医学からしても間違った内容であり、人の健康に関する職業については医学的な教育体系で資格を得ることがいかに大事であるかということだと思います。


どうしてこのような新生児・乳児に関する整体の考え方がそれなりに受け入れられていたのでしょうか。
次回はその時代について考えてみようと思います。




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助産師と自然療法そして「お手当て」 32 <野口整体と新生児>

すこし間があきましたが、また「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)に書かれている、妊娠・出産・育児に対する野口晴哉(はるちか)氏の整体の考え方をみていこうと思います。


こちらの記事で書いたように、野口晴哉氏はちょうどトリアゲババ(男性の産婆もふくむ)から有資格者の産婆・助産婦へと出産介助者が取って代わられた過渡期に整体を築きあげ、よろず相談のように妊娠・出産・育児について対応していたことも整体としてまとめたのではないかと推察しています。


ですから中には当時の医学的な知識と思われる内容が含まれていたり、反対に全く想像の産物としか思えないような話が混ざっています。


たとえば、野口晴哉氏が早産の赤ちゃんの出産に対応したような話が書かれています。年代は不明ですが、この本のもとになる講演が昭和48年のようですから、それ以前のことと思われます。

 Nさんのお嬢さんが7ヶ月で水戸から東京に出てきて、道場に通うつもりでいたところ早産してしまったことがありました。7ヶ月だから育たないだろうと思って、母体のほうに愉気をしながら、赤ん坊はどこにいるのだろうと思ってみたら、ペシャンコになってお尻の方に、風船が縮んだような状態でいるのです。そこで後頭部に愉気をしてみたらだんだんふくれてきたので、これなら助かると思って後頭部に愉気をし続けたら丈夫になってしまった。今になってみると他の子供より丈夫でたくましくなっておりますが、それは後頭部愉気のためだと思うのです。

愉気(ゆき)とはこちらの記事で紹介したように、手を当てたり軽くトンと叩くことのようです。


この部分を読んでまず思ったのは、分娩予定日が不正確だった時代の話ですからおそらく7ヶ月ということ自体が間違いだったのではないかということです。
生まれてみたらもう少し妊娠週数がいっている赤ちゃんで、たまたま元気になったのではないかという印象です。


「ペシャンコになって」とか「ふくれてきて」という表現が何を意味するのかわからないのですが、このあたりは医学知識よりは想像上の産物ではないかと思います。


これぐらいあきらかに変な内容であればわかりやすいのですが、当時の医学知識を織り交ぜながらの話になると「愉気の効果」を信じた方もいたことでしょう。


<新生児メレナについて>


野口晴哉氏の「メレナ」についての説明です。

 子供に細菌がいませんとメレナといって、出血して止まらない病気になります。これになると死にます。どんな細菌でも入れば大丈夫。それこそ結核菌だって大丈夫です。余り無垢にしておくとそうなることが時々あるようですが、その為にレモンの1滴を入れた水をやるなどという方法をとるのです。これでメレナは予防出来ます。メレナになった場合には胸椎七の左に愉気をする。多くの場合はそれでよくなります

いえ、よくならないし危険なのでこの話は信じないようにしてください。


新生児は胎内で母親からビタミンKを臍帯血で供給されていますが、生まれるとそれがなくなりビタミンKが不足することで胃や腸から出血する新生児メレナという病気があります。


1980年代終わり頃から、出生後から3回、ビタミンK2シロップを投与する方法が日本でも行われるようになってメレナは劇的に少なくなりました。そして2010年には「新生児・乳児VK欠乏性出血症に対するVK製剤投与のガイドライン」が改訂されたことはこちらの記事で書きました。


野口晴哉氏が「子供に細菌がいませんと」と書いている部分は、おそらくビタミンKが腸内細菌叢で作られることをどこかで聞いたのだろうと思います。
でもあくまでも、腸内細菌叢の話で、「どんな細菌」ましてや結核菌でよいはずがありません。


そして治療は、ビタミンKが欠乏している原因に対して、ビタミンKを補充すること以外にないものです。


どこかで聞きかじった医学的な話題を整体に結びつけたという印象です。


これ以外にも、新生児から乳児期にかけてのよろず相談的な内容が書かれています。
次回は新生児・乳児期の整体についてみていこうと思います。




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助産師の自然療法そして「お手当て」 31 <へその緒を切るタイミング>

胎児は臍帯で胎盤につながっていて、子宮の中では胎児の血液が臍帯と胎盤の間を循環しています。
それによって肺呼吸に代わるガス交換や代謝を行っています。


出生と同時にその胎児胎盤循環は終わり、臍帯内の血管も閉鎖して自らの体内での血液循環が成立します。


出生後、いつその臍帯を結紮(けっさつ)し臍帯を切断するか。


二十数年前に助産婦学校で使用した「助産学」(日本看護協会出版会、1987年)には以下のように書かれています。

臍帯結紮の時期については、従来原則として胎盤から児への血液の移行を考え、拍動停止後とされていたが、近年は、第一呼吸が正常にできれば、20秒位で児への血液移行は終わるといわれ、その後の黄疸との関係からも早期結紮を主張するひともある。


当時は、胎盤や臍帯に残っている血液が胎児へ入ることで多血傾向になり、黄疸(高ビリルビン血症)の原因になる可能性が高いと教わりました。


特に、分娩台で介助する場合、産婦さんの体の位置よりも児は低い位置で受け止めて出生直後のさまざまな処置をしますから、その高低差だけでも胎盤や臍帯内の血液が児へ移行しやすくなります。


ですから、児娩出直後にすぐに十分泣いて肺呼吸ができている場合には、すぐに臍帯を止める処置をするように習いました。


野口整体の「臍帯」についての考え方>


野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)にも、臍帯切断について書かれた部分があります。

臍帯


 分娩しても、子供が空気に適応するまでの間は母体とつながっている必要があって、産婆が間に合わなかったというときの子どもの方が却って丈夫なのはそのためです。だから臍帯はできるだけゆっくり切る。最低一時間はみるべきだと思うのです。

1971(昭和46)年頃の講演をもとに書かれた本のようですから、私が助産婦学校で学んだ十数年前です。


私が使用した教科書の内容から推察しても、1971年頃では、医学的にも臍帯をゆっくり切断するかできるだけ早く切断するかほうが良いかまだまだ議論があった時期なのではないかと思います。


<臍帯切断についての「社会モデル」>


助産師になってしばらくは、教科書どおりの方法以外に考えたこともありませんでした。


「へその緒をいつ縛るか、いつ切るか」
臍帯切断ひとつをとっても、医学モデルと社会モデルがあることを知るのはもう少し後になってからでした。


野口晴哉氏の著書で臍帯の取り扱い方という医療処置について書かれていることについては、現代から見れば「なぜ整体で医療行為にまで言及するのか」という疑問になると思いますが、1960年代頃まではまだ無資格者の介助も地域社会の中に残っていたことが理由なのではないかと思います。


こちらの記事で書いたように、無資格者と教育を受けた産婆・助産婦の違いのひとつは臍帯切断に対する知識と技術がありました。


このあたりの記事から引用させていただいた板橋春夫氏の「叢書いのちの民俗学1 出産」(社会評論社、2012年)はその副題に「産育習俗の歴史と伝承『男性産婆』」とあるように、分娩に直接関わってきた男性について書かれています。


野口晴哉氏が妊娠・分娩・育児に関して、深く立ち入った内容を書けるのも、男性産婆的な存在として出産に関わる面があったのではないかと推察しています。


ですから、この臍帯切断についての記述も当時の医学的な知識としてはそれほど間違った内容ではなく、どちらかというと分娩取扱いをめぐる産婆・助産婦との確執のような印象です。


ところが、1990年代になってからでしょうか。
「へその緒をいつ切るか」
そのことに出産の中の「自然性」を求める声が聞かれるようになったのは。


次回は、一旦、野口整体の話題からはずれて、この臍帯切断を「医療介入」ととらえた議論について考えてみようと思います。




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助産師と自然療法そして「お手当て」 30 <野口整体の「ショック」という考え方>

前回の記事で紹介した、分娩後に「左右の骨盤が揃うまで、左右の体温を測定して一致するまでは安静臥床のまま過ごす」ということともに、もうひとつ、琴子ちゃんのお母さん経由で「仙骨ショック」がどうやら整体的な考えかたからきているらしいということを知りました。


助産院は安全?」の魚拓の中で写真は見られなくなりましたが、「仙骨ショック」とは何かが少しわかるキャプションが残っています。

寝た状態で、助産師さんに膝を押されます。足を離されたら、その反動で妊婦が思いっきりのけぞります。

そして仙骨を思いっきり畳にガーンと打ち付けます

その記事のタイトルに「仙骨ショックで陣痛を起こせ?!」とあるように、陣痛を起こす目的のようです。


妊婦さんの腹部や腰部へ衝撃があたるようなことは、胎盤早期剥離を起こす可能性があるので、通常では考えられないほど危険な方法です。


リンク先の「助産院は安全?」の記事の中で、琴子ちゃんのお母さんが「どういうことからこの仙骨ショックがお産と関わるようになったのか」と疑問を書かれています。


私も当時こんなことが実際にされていることが信じられず、ネットで調べてみたのですがわからないままでしたが、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)の中に、少し手がかりになるような箇所を見つけました。


<「分娩が遅い場合の手伝い方」>


陣痛を起こすための「仙骨ショック」ではありませんが、「分娩が遅い場合の手伝い方」として似たような内容が書かれています。

仰向けになって、足を立ててください。どちらか開きにくい方があります。開きにくい方を出来るだけ寄せておいて、開きやすい方を瞬間、こうやるのです、そうすると大抵つかえているのが出てきます。それで出ない場合には、今度はその逆をやるのです、続けて。

実演しながらの説明のようで読んでも具体的な方法がよくわからないのですが、この方法はおそらく、児が産道内を下降してくる分娩第二期に時間がかかっている場合の対応方法ではないかと思います。


また「仙骨を畳に打ち付ける」ものとも違います。


ただ、この箇所に続き、野口晴哉氏は「後産に時間がかかる」場合、つまり胎盤がなかなか娩出されない場合と新生児仮死の対応方法にも言及しています。


分娩の「異常経過」に対しての治療行為ともとれる内容がかなり書かれています。


野口整体の中での「ショック」>


上記の本の中には、実際に「ショック」という表現を使った箇所があります。


医学的にショックというと末梢循環不全のことですが、野口整体の場合には全く異なるようです。


「悪阻(おそ)と腰椎五」という箇所で、以下のようにあります。

悪阻は血液毒の清算、受胎によって起こる新陳代謝異常の調整方法、或いはそれまでの体の掃除を行う働きのように思われます。そこで悪阻がひどいほど根性が悪いということになり、そして根性の悪い人ほどせっせと悪阻をやる必要があります。私も当然そういう考え方で、悪阻を治すということは一度も考えないできました。

つわりは「根性が悪いから」なると考えていたようです。

ところが或る時、腰椎五の引っ込んでいる人があったので、それをショックして正常になるように誘導しました。そうしたら悪阻が途端になくなるのです。
それからは悪阻をやっている人がいると腰椎五を調べ、それに愉気をしてショックをすると悪阻がなくなるのです。
妊娠すると骨盤が広がってきます。腰椎五をショックするとその拡がりがよくなります。これは普段の体で実験して判ったのですが、ひょっとしたら拡がりのつかえが悪阻の理由ではないだろうかと思い・・・

つわりは「根性が悪い」ことが原因ではないと考えなおされたことは幸いですが、「骨盤の拡がり」とか「拡がりのつかえ」となると想像上の産物でしかないのですけれど。


さてここで「ショック」と表現しているのは、「愉気(ゆき)」のことのようです。
愉気とは整体では「手をあてる」ことのようですが、ただ当てただけでもだめなようでどうやら奥が深いもののようです。


<腰椎「ショック」と流産、そして優生思想>


この腰椎五のショック、つまり手をあてる方法は流産の危険性があると野口晴哉氏は書いています。

 腰椎五の両側を押さえて愉気をします。或いは骨盤の拡がりを誘導するように処理しますと、悪阻はなくなります。
 ただ稀にそれを急激にやると流産する人がいます。

それでは腰に手を当てても、場所によっては流産してしまうことにもなりそうですが・・・。

ところが腰椎五にショックするとそういう癖のある人はさっさと出てしまう。梅毒などを以前患った人もやはり腰椎五で出てしまう。
そこでこれは異常産の調整ではないかなと思った。異常なら出たほうがいいのですから、別段流産などは警戒しないで普通にやって、耐えれば産み、耐えなければ出てしまうので、これはいいと思って腰椎五のショックはずっとやっています。


12週未満の早期流産について、「50〜70%は胎芽(胎児)の染色体異常が原因とされている。そうした流産は動物としての自然淘汰現象ととらえられ、それを回避することは不可能と考えられている」(「周産期医学必修知識 第7版」より)というとらえ方に近いものではありますが、野口氏の真意は違うところにあるようです。

 整体協会で扱った出産には片輪がいない。異常児がいない。妊娠三ヶ月に腰椎五のショックといえばトンと叩くだけですから、気休めのようなつもりで戦争前はやっておりました。その間一人の片輪も生まれなかった。

「マクロビの安産志向の背景にある思想」で紹介した、桜澤如一(ゆきかず)氏の「難産の子供は、人生の第一歩から不幸で、おまけに一生不幸」に通じるものを感じます。


富国強兵政策の時代に生きざるを得なかった人たちに優生思想が根強くあることを現代から批判するのは後付の批判でしかないのですが、野口整体にはこうした考え方があったことは認識しておいたほうがよいかと思いました。


<再び、助産師の行った仙骨ショックとは?>


野口晴哉氏のいう腰椎ショックも、「トンと叩くだけ」とあります。


となると、冒頭の部分で紹介した助産師が陣痛を起こすために仙骨部を畳に打ち付ける方法とはどこからきたのでしょうか?


今でも信じてその方法を実施している人がいるのであれば、本当に危険なので即刻やめるべきです。


そして「医師の医学的判断および技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし又は危害を及ぼす恐れのある行為」を「医療類似行為」として明確にしたことの意味を、助産師側はもう一度考えなおす必要があると思います。




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助産師と自然療法そして「お手当て」 29 <分娩時の骨盤万能論>

前回の記事で紹介したように、産後、左右の骨盤が揃うまで起き上がらない生活を実践している人がいることを琴子ちゃんのお母さん経由で知った時には、本当に驚きました。


病院や診療所で勤務していると、なかなかそういう人に出会うことはないからです。


ところが「助産院は安全?」のこちらの記事で紹介されているようにバースプランとして挙げる方がでてきたということは、野口整体の1970年代の考え方をいまだに誰かが勧め、誰かが出産時にその方法を受け入れて分娩介助しているということです。

産後数日はずっと臥床でオムツ内で排泄したいとか・・・では育児は誰がするのか?産後の肺塞栓等の話をしても、いや、でも骨盤が・・・と理解してもらえず。
「これは、貴女のことではないですか?」より抜粋


野口整体の考え方を受け入れる人>


検索すると、実際に産後、左右の体温を測定して「揃うときまで臥床」を実践している人のブログがいくつも出てきます。


その中で共通しているのは、「分娩後が体を整えるチャンス」とか「リセットするチャンス」というような表現が使われていることです。


これは、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)の中のこの部分とも関係があるのではないかと思います。

特に分娩の後は体を丈夫にする機会だと思うのです。いろいろな今までの病気がなくなります。分娩した後で起こった病気や体の変調も、分娩をし直すと非常に簡単に改まります。

前回の記事で紹介したように、左右の骨盤を整えることでさまざまな病気まで治せてしまうチャンスでもあり、今後の病気や不調まで予防できるチャンスという受け止め方のようです。


そして長いと1週間以上、産後寝たきりの生活を実践したようですから驚きです。
本当に血栓症を起こさなくて何よりでした。


産後、出血も続いている中、排泄の世話も身の回りの世話もすべて夫がしているようです。
当然、赤ちゃんの世話もできない状態です。


夫も疑問に思わなかったのでしょうか?


野口整体を勧める人>


現在でも、野口晴哉氏の本にあるような左右の体温測定を勧めている整体師もいるようです。
某整体院のサイトには以下のように書かれています。

女性の体は受胎して赤ちゃんが成長し、少しずつママのお腹が大きくなるにつれて、だんだんと骨盤が開いていきます
そして分娩時には骨盤の開き具合は最大になります。
拡がった骨盤は、産後、徐々に閉じていき、元に戻ろうとします。


およそ8時間おきに「左右交互に」縮んでいきます。
つまり、およそ8時間かけて骨盤の片方が縮んで、今度は逆側が8時間かけて縮んでいくことを何度か繰り返すことで閉じていき、元の状態に戻ろうとするわけです。

そして具体的に体温測定と起き上がる時期について書かれています。


なぜ、「骨盤が左右均等な時期に起き上がる」ことが大事なのでしょうか?

開いた骨盤は、徐々に閉じていくわけですが、産後の起き上がるタイミングが悪いと、人間の土台である骨盤がずれてきてしまいます
女性は、美容的なことから産後に太ることを気にされると思いますが、ただたんに太るだけでは済まされないような問題がここに潜んでいます。
起き上がりの時期の誤りが原因となって、腰痛を引き起こしたり、腱鞘炎や肩こりになったり、あるいはまだ更年期に与える影響が非常に大きくなるのです。

そしてやはり、出産をチャンスととらえているようです。

逆に、この起き上がりの時期をうまく経過することで、出産は女性の体を整え、体質を改善して、より健康に、よりキレイに美しくなれる絶好のチャンスになりうるのです

一般に、出産すると太ったり、容色が衰えたりなどということが言われます
逆に整体では、出産を女性の体を整えてより健康に、より美しくなるためのチャンスと考えます。

容色が衰える・・・なんて言っているのですか、世の中では。


それにしても産後の安静臥床のリスクは、美しくなるためのチャンスにしては大きすぎるものがあると思います。産婦さん自身にも、そして赤ちゃんにも。


野口整体的安静臥床を容認する人>


産後数日の安静臥床を実践した人で検索したサイトは、すべて自宅分娩が助産院での分娩でした。


当然、病院や診療所ではそのような希望があっても、医学的根拠もないし、安静臥床のリスクを説明して受け入れられることはまずないでしょう。


ですから「病院では、安静臥床のケアをしてくれるところはないので」という理由が書かれています。


中には助産師側から野口整体を勧められたような場合も見受けられました。


野口整体の産後の安静の根底にある考えかた、再び>


「出産後に『骨盤を整える』と美しくキレイになる」というのは、いかにも現代的なアピールのしかただと思ったのですが、実は、野口晴哉氏の著書の中に次のようなことが書かれています。

簡単なことで、出産の後のいろんな問題が処理できるのです。(中略)
母子の健康を最高度にするために行うのです。特に分娩の後を経過することによって、分娩の持つ自然の働き、人間を美しくしたり、逞しくしたりする働きを誘導する。私も初めはそういうつもりでやっていたのではないのです。みんな太ってしまってみっともないから、ちょっと余分に骨盤の開いているのを引き締める方向づけをすると、自然に整ってくると思っていたのです。
それがだんだん効果を現してくると、それを求める人が多くなって、今のような状態になってきたのです。
「誕生前後の生活」(p.70)


「太ってみっともない」
それが、この野口整体式の産後の長期安静の根底にある理由だと、私はこの部分から解釈しました。


10ヶ月かけて胎児を育てるために体中ざまざまな組織が増加したり、伸展したり妊娠に伴う変化はダイナミックです。
そしてそれぐらい長い時間をかけて変化したものですから、戻るのにも時間が必要ともいえるのではないでしょうか。



「産後キレイになる」ことよりも、血栓症や子宮復古の遅れ、そして育児に慣れることの遅れなど、周産期看護の視点から考えればリスクが高すぎる方法です。


助産師としては、勧めなくても容認した時点でその責任は重いのではないかと思います。




助産師と自然療法そして「お手当て」」まとめはこちら

助産師と自然療法そして「お手当て」 28 <骨盤の収縮?ー産後の骨盤万能論>

整体を調べていると、整体という言葉自体が何を指しているのか全体像が見えてきません。


整体のサイトをみると、ある人は野口整体一筋であり、ある人はカイロプラクティックを取り入れて整体と呼んだり、中にはきちんとあん摩指圧マッサージ師の国家資格があるにもかかわらず野口整体的なものやカイロプラクティックあるいはオステオパシーなどを取り入れて、「自分なりの方法を模索している」ということを書かれている人もいます。


つまりは、自分で好きなように「理論づけて体系化」できるのが整体なのかもしれません。


妊娠・出産に関係した整体もまた、野口整体がもとにあることを感じさせるものやカイロプラクティックの考えを取り入れたものもあります。


今回からしばらくは、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年初版)に書かれたことが基本になっていると思われる考え方についてみていこうと思います。


<「分娩後の骨盤の収縮」>


「出産後の骨盤は開ききっていて、その左右の骨盤が均等に閉まるまでは起き上がってはいけない」「左右の腋下の体温が一致したら、起き上がる」という、産科では聞いたこともないことがごく一部の妊産婦さんの間で実践されているのを聞いたのは、2008〜9年頃の「助産院は安全?」の中であったと記憶しています。


そのもとになるのが、この「誕生前後の生活」の「分娩後の骨盤の収縮」(p.46)ではないかと思いますので紹介します。

母体は分娩すると、骨盤が自然に縮んできます。縮む場合に、左右が片側ずつ縮んでくるのです。縮む方の体温が高いのです。だから両方の体温を調べると、左右違うのです。揃った時は左右一緒になるが、また差が出てくるのです。そうして片側づつ縮んでいる間は、寝ているほうがスムーズにいくのです。或る時機がくると、左右一緒に縮まりだす。その時は体温も揃い、腰椎四の二側の弾力が両方揃ってきます。その機に起きると、骨盤がきちんとしてまた女らしく美しくなる。喘息があれば喘息がなくなる。土台である骨盤が動く時機ですから、体の改善に利用できるのです。

「骨盤がきちんとすると女らしく美しくなる」というところで、先を読む気を失いそうになりましたが、このあたりも現在の「骨盤ケア」につながってくる考えなのかもしれません。


そして喘息以外に、この方法でさまざまなことを良くしたと書いてあります。

 私は分娩を利用していろいろな体の歪みを整体に導きました。その中で、分娩食後に針を持つと目を毀(こわ)すと言われておりますが、骨盤をきちんとすると、受胎前より視力は増えるのです。乱視とか近視とか、あるいは特別な視力の異常もよくなりました。
 その中で緑内障と言われている人が治ったという例がかなりあるのです。これも妊娠関係の異常と考えたらよく、腸骨を調整するとよくなってくる。骨盤の後始末で調整できる

 眼だけでなく、分娩後に起こった喘息、蓄膿症、リウマチ、神経痛、或いは太り過ぎ、やせ過ぎも変わります。或る奥さんは32キロ減ったそうです。(中略)それは骨盤を閉めただけなのですが、分娩を利用すると大幅な変化を起こすことができる。痙攣、寝小便、神経痛といったようなものも、分娩後の収縮の経過をスムースにすることで治ってしまう。

骨盤万能論は、精神分裂病(現在の統合失調症)にまで言及しています。

 又、分娩の後で分裂病を起こす人が時々ありますが、これは部屋を暗くして静かにしていればなくなります。だから分娩の後、しばらくは部屋を暗くして急に明るいところへ出ないようにしていれば、ほとんどの場合、精神分裂病にはなりません。


<「産褥から起きる時その見定め」>


具体的に起きる時機について以下のように書かれています。

「ここで起きる」という時機の見定めさえやればいい。しかしその時機の見定めが難しいのです。片側ずつ縮んでいくうちに左右揃うことがあるのです。この時は左右の体温も揃うのです。体温計を二本揃えて同時に計ることでわかるのですが、骨盤が揃ってそれから体温が揃うので少し遅れるけれども、知らないで当てずっぽうに起きるよりはいい。方法は胎盤が出てから八時間毎に計る。両方計って揃ったとき、それが三度目に揃った時に三十分〜一時間、正座する。そしてまた寝るのです。翌日から普段の生活に戻る。これが分娩後の起き方です。

 便所に起きたといっても骨盤の縮まりは止まってしまうのです。一度起きてしまったら、それから先にいくら寝ても駄目なのです。

そのために、産後、まったくの寝たきり生活で、排泄に関しては家族の全介助を受ける生活をするようです。


この本の元になる講演が、1971(昭和46)年ですから、当時の医学レベルではわかっていないこともたくさんあった時代です。


また国民皆保険制度になってようやく10年。出産の大半が医療施設で行われるようになったとしても、妊娠・出産に関する知識や情報というのはまだいきわたっていない時代ではないかと思います。


妊娠・出産時の腰痛はほとんどの方が体験するものであり、「骨盤の左右の収縮」とか「骨盤の後始末」「骨盤の調整」と言われると、なんとなくそんなものなのかと納得させられてしまいやすいのかもしれません。


次回は、現代にもこの骨盤万能論ともいえるような説を勧めている人、信じて実践している人について考えてみようと思います。




助産師と自然療法そして「お手当て」」まとめはこちら

助産師と自然療法そして「お手当て」 27  <「誕生前後の生活」が書かれた時代 2>

こちらの記事で、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」の序文を紹介しました。


1973(昭和48)年に出版された、この整体の妊娠・出産に関する講義をまとめた本の序文の最後の部分には、明らかに助産や産科医療への批判が書かれています。
再掲します。

斯くの如く、出産前後の問題には間違ったまま信ぜられていることが多い。特に近時出産の手伝いとしての助産の技術がその範囲を越え、技術によって出産せしめるつもりになり、摘出や切開が盛んに行われているが、母体を傷つけ、将来の健全生活をかき乱す如き助産方法は本当ではない。


強調した部分の発言にはどのような時代背景があるのか、見てみようと思います。


<1970年代の日本の出産事情>


国立成育医療センターの久保隆彦先生の資料「わが国の妊娠・分娩の危険性は?」(pdf注意)の「我が国の分娩場所の推移」(p.4)をみると、1950年代には自宅分娩が90%以上であったのが、1960年には自宅と病院などの施設分娩が半々になり、1975年には助産所を含む施設分娩がほとんどになっています。


「妊産婦死亡」の統計(p.3)では、1950(昭和25)年の妊産婦死亡(出生10万対)が176人であったのに対し、ほとんどが施設分娩になった1975(昭和50)年には28.7人とおおよそ6分の1にまで減少しています。


そういう時代になぜあえて、野口晴哉氏は上記のような批判を書いたのでしょうか?


<無資格者による分娩介助の時代の終焉>


1950年までの「自宅出産」というのはこれまで何度か書いてきたように、現在のイメージの「自宅で助産師の介助のもとに家族に見守られて出産する」というものでは決してなく、経済的理由などから当時の産婆や助産婦のような専門職さえ呼ばれないお産が多かったわけです。


出産には、無資格のトリアゲババや呪術師のような人たちがそれぞれの経験で関わっていました。
実際に1960(昭和35)年頃まで、「子を産ませることは人助けだで」と無資格の助産を行っていた人の話はこちらの記事で紹介しました。


そのトリアゲババがが「昭和35年、資格関係の法律がやかましくなるまで百人以上をとりあげた」とあるのは、1961(昭和36)年の国民皆保険の制度に向けて、出産一時金の支払いが認められるのが医師と助産婦の分娩介助であることが背景にあるのではないかと推測しています。


全ての出産に訓練を受けた医療従事者が立ち会う時代になったといえるでしょう。


野口晴哉氏の著書を読むと、野口氏が妊娠・出産そして育児に関してたくさんの相談を受けていた様子がわかります。
おそらく地域の中で相談を受け、それなりに出産を見聞きした経験によってうまく対応できていた部分があり、それによって信頼もされていたのではないかと思います。


ところが出産や健康に関する部分も、時代は医学教育を受けた専門職の時代に入っていったということでしょう。


1948(昭和22)年にあん摩指圧マッサージ師・はり師・きゅう師法により医療と代替療法が整理され、自ら「治療師」の看板を下ろさざるをなかった野口晴哉氏にとって、当時はまだ「妊娠・出産・育児」の分野では活路があると考えていたかもしれません。


「妊娠・出産は病気ではない」というとらえ方の時代であったでしょうし、自宅で産むことが当たり前であった時代がわずか十数年で終わるとは思ってもいなかったのかもしれません。


ところが、社会は急速に医療機関での出産を選択するようになった。


それが産科医療への反発として表現され、序文の最後の一文「出産は出産の自然性を保つべきであると信ずるからに他ならない」となっていったのだと思わざるをえません。


こういう時代背景を考えて1973(昭和48)年に書かれた野口晴哉氏の本の序文を読めば、出産・育児の中での整体の終焉の時代の断末魔の叫びのようにも受け止められます。


まさか、野口晴哉氏本人もそのあと20年ほどで妊娠・出産界隈に整体がリバイバルするとは思っていなかったのではないかと。
しかも「技術によって出産せしめるつもり」と批判した助産の中から。




助産師と自然療法そして「お手当て」」まとめはこちら

助産師と自然療法そして「お手当て」 26 <「誕生前後の生活」が書かれた時代 1>

前回、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年)の序文を紹介しました。


本文では、たとえば予定日超過の妊婦にどう対応するか、新生児仮死への対応などかなり医学的な「治療」の領域に踏み込んだ内容が書かれています。
こちらの記事で紹介したように、野口晴哉氏は1948(昭和22)年以降、「病を治すことよりも人間の力を引き出して健康に導く自らの活動を『体育』と位置づけ、『治療』を捨てることを決意した」ようです。


それまでの「治療者」として活動していた野口晴哉氏にとって、その後上記本を出版するまでどのような時代であったのか、その背景を考えてみようと思います。


<「医療類似行為」に線引きが行われた時代>


社団法人「整体協会」のHPの「野口晴哉氏について」に、氏の経歴が書かれています。
1911(明治44)年に生まれ、15歳で「道場を開き、愉気(ゆき)と活元運動を主体とした療術団体」を設立し、17歳で「健康に生くることが自然順応の姿であるなどとする『全生訓』を発表とあります。


15歳で健康に関して何かを悟り組織を作ることもすごいと思うのですが、まだ国民の一部しか近代医学を受けることができなかったこの時代には、おそらくこうした団体が林立していたことでしょう。


15歳から始めた治療師としての活動ですから、1948(昭和22)年頃であれば経験量も増えて実績もある年代ではないかと思います。
その年代に「治療を捨て」ざるをえない背景には、その年に出された「あん摩師・はり師・きゅう師に関する法律」で医業とその周辺行為、さらにそれ以外のものにはっきりと線を引く時代に入ったことが大きいのではないかと思います。


野口晴哉氏が「治療師」として行っていたことは、「治療とはいえない」ものであることが社会的に明らかにされたと言い換えられるでしょうか。


では、「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師」はなぜ、医療類似行為として法的に認められたか。
それは「治療効果」が認められたのではなく、「人体に直接触れ、人体に危害を与えるおそれのある」療法に関しては医学に基づいた教育と資格が必要になった、という時代の変化であるといえます。


ですから直接体に触れてもんだり、さすったりするマッサージも、上記国家資格がなければ、マッサージを称することは違法になります。


そのために助産師の乳房「マッサージ」に対しても、1960(昭和35)年に通達が出されて、あん摩マッサージ師らとの法的根拠の争いに決着がついたことはこちらこちらの記事で書きました。


<医療類似行為と科学的な議論>


「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師」そして「柔道整復師」が代替療法の中でも国家資格を与えられたことは、「人体に直接触れる行為」には医学的な知識と資格が必要とされたこととともに、それまで治療効果を謳っていたとしても科学的根拠がなければそれが認められなくなったということになります。


GHQが「あん摩や鍼灸は非科学的であり不潔である」と禁止にしようとした背景には、当時、アメリカでのカイロプラクティックの問題があったのではないかと推測できます。


代替医療のトリック」(サイモン・シン&エツァート・エルンスト著、青木薫訳、新潮社、2010年)から引用します。

 その間、本家のアメリカでは、カイロプラクティックの哲学や方法を認めない医療界の主流派から圧力が高まっていた。医師たちは、免許もなく医療を施した罪でカイロプラクターが逮捕されるよう働きかけ、1940年までには、一万五千件を上まわる告発がなされた。
(中略)
 法廷で争うという方法では、カイロプラクターの熱烈な帰属意識に水をさすことはできなかったため、米国医師会は新たな作戦に出た。その動きは1963年の「いんちき医療に関する委員会」設立をもって最高潮を迎えた。(p.212)

現在の整体にはカイロプラクティックが含まれているようですが、いつ頃から日本に入ってきたのか詳細はわかりませんが、1970(昭和45)年には、カイロプラクティックはあん摩マッサージ・指圧とは区別されるという政府の見解が出されています。


GHQは本国でのカイロプラクティックの問題と、日本の代替療法の林立を同一の問題としてとらえたのではないかと推測します。


代替療法のトリック」から続けて引用します。

 そこまで反発する米国医師会はおかしいと思うかもしれないが、医療界の主流派がカイロプラクターを嫌うのにはいくつか理由があったことを思い出そう。たとえば、カイロプラクターがイネイント・インテリジェンスという非科学的なものを信じていることや、多くの病気は細菌やウィルスによって引き起こされるという事実を認めようとしないこと、さらには脊椎のズレをもとにもどしてやりさえすればどんな病気でも治せると信じていることなどだ。

イネント・インテリジェンスというのは「生命力や生命エネルギーのようなもの」と訳されていて、その流れが妨げられると「そこからありとあらゆる健康上の問題が生じる」という考え方のようです。

それに加えて、通常医療の医師たちは、カイロプラクターの多くが《Eメーター》という奇妙な装置を好んで使っているという事実にも驚かされた。Eメーターは、1940年代半ばに、ヴォルニー・マチソンというカイロプラクターにより発明された装置で、患者が二つの端子を握ると、目盛りの上で針が振れるしかけになっているーそれを見れば、患者の健康状態がわかるのだという。

 米国医師会に関する限り、話がこじれたのは、カイロプラクターの多くが、患者の主治医になりたいという願望をもっていたからだ。つまり、カイロプラクターにも定期検診や長期的予防治療はできるし、多くの病気を治療することもできるのだから、一般開業医に取って代わってもいいはずだというのだ。


1940年代前後というのは、日本だけでなく医療と代替療法を整理する時代だったといえるかもしれません。


こうした時代背景をみると、野口晴哉氏は自分が信じて「治療」してきたことを否定されても、決して納得はしなかったのではないかと思います。
それが「何かに頼ることなく自らの足で立つことを指導理念にあげ」という言葉につながっていくのかもしれません。


次回は、「誕生前後の生活」が書かれた頃の産科の変化について書いてみようと思います。




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